5話:困惑と気付き

 稲飯は混乱の極みにあった。

 なぜ山東省へ向かう高速に乗っていたはずの自分がこんな何もない田舎へと来てしまったのか。走行中ラジオを聞いていたことは思い出せたのだがそれ以降ははっきりしないのだ。移動したときの記憶が全く無く、気付いた時には荒野の真ん中にいたのである。

 わかったことと言えばこの辺りの人達の文化水準は著しく低いということである。山東省は確かに田舎では有るが、昔ながらの生活を今も続けている華族少数民族が多く住む地域とは離れているはずだし、電気すらないというのは違和感がある。

 たまたま見つけた小さな村にお邪魔するようになって、もう三日も経ってしまったが、未だに現在自分がいる場所がどこであるのか見当もつかないでいる。携帯は県外だし、PCもネットに繋がらない。お手上げ状態である。幸いなことに中国語が通じるため、国内であることは間違いないはずだが。

「私たちからも質問させてもらっても宜しいですか?」

 李典と名乗った少女が自分に質問の可否を訊いてきた。ショックに力が入ら無い為バンに寄りかかったままの情けない姿でも良いならと言うと、逡巡した後、彼女は口を開いた。

「無駄を省き簡潔に答えて下さい。貴方はどこの出身ですか?」

「日本だな」

「日本とはどこにあるのですか?」

 まさかそんなことも知らないとは。あり得ないことでは無いとはいえ稲飯は少し驚いた。

「……海の向こう。東の方かな」

 答えると、なにやら紙束に筆を走らせていた楽進とか言った小っさい方の女の子が口を挟んだ。

「東……海の向こう。もしかして東夷の人間でしょうか」

 東夷? 聞き慣れない言葉である。東という言葉が入っているのは聞き取れるし、そこまで間違った言葉ではないであろう。

「東夷ね……そんな命懸けの航路をその小さな船で渡ってきたというわけですか? 流石に無謀という他無いですよ」

 李典は呆れた表情で言った。

「命懸けって……いやちょっと待て船ってこれのこと言ってるのか?」

 何の冗談だろうか。李典は真面目な顔をして稲飯の後ろにあるバンを指さしているのである。

「…………」

 言葉を失うとはこういう状況のことを言うのか。要するにこの少女は車すら見たことが無いということである。

 蔵の中の空気が冷えたような感覚がした。

 これは遭難したと言ってもいいのではないだろうか。人がいるからと安心していた気持ちが萎れてゆくのを感じた。

「わぁ。見れば見るほど本当に珍しいですね。ちょっと触ってみても良いですか?」

 楽進がちょこちょことバンに近寄ってきた。稲飯は力なく「どうぞ」と答えることしかできなかった。それに続いて李典もバンに近づいた。
 ペタペタと遠慮なしに車のボディを触る彼女達の眼は興味深げに輝いていた。

「な、なあ」

 稲飯は李典に声を掛けた。

「はい。なんでしょう」

 サイドミラーを覗きながら、李典は応答した。

「君達さ、この村の人じゃないんだろ? この辺りの大きな町に案内してくれないか」

 車を出して辺りを調べようにも、現在地がわからない今の状態では、十中八九迷ってしまうため身動きが取れなかったのだ。
 村の人たちは食料くらいなら分けてくれたが、あまり近づこうとすると腫れ物に触るような態度を取られてしまうのだ。
 もしこの二人が案内を引き受けてくれるのなら渡りに船である。

「それは構いませんけれど。この船はどうするのですか?」
「いや、まだ走れるから大丈夫だって」

 幸い現場に着いたら重機に入れる予定だった軽油が後部にいくつか乗せてある。このバンは時代遅れにもディーゼル車なので、軽油で走ってくれる。

「走るんですか!」

 楽進がさらに目を輝かせた。子供のようなはしゃぎ様だ。本当にバンのことを船だと思っているようだ。

「今エンジン掛けるからちょっと待って」

 稲飯は運転席に着き、挿したままになっていたキーを回した。

「ひゃぁ!」

 怯えた子犬のよう声を上げたのは楽進である。突然鳴ったエンジンが掛った音に驚き、二人は尻餅を着いた。

「お、おい! 大丈夫か?」
「な、なんです急に。唸り声を上げて……もしかして生きてるのですか!」

 楽進が警戒して何故か拳を構えた。恐らく取り乱しているのだろう。背後に隠れている李典は、楽進の小さな体躯に収まりきらずにはみ出てしまっている。
 車を見たことが無いんだ。急にエンジン音が鳴ったら吃驚して取り乱したとしてもおかしいことは無い。

「安心しろって。走る様にしただけだから」

 稲飯がそう言うと、二人は警戒しながらも運転機側の扉へと近づいてきた。

「そう言えば君たちはどこから来たんだ?」

 稲飯が聞くと、二人はハッとして顔を見合わせた。何やら慌てた様子である。

「そうでした野営地へ戻らないと!」
「整兄さまはともかく、叔父様が心配して探しに来てしまうかもしれないわ」

 今何か不穏な単語が聞こえた気がしたのだが……野営と言ったか?
 楽進は持っていた紙束を綺麗に纏めると、李典に言った。

「私はあちらに待たせてある馬を野営地まで送りますので、曼成さんは稲飯さんを案内してください」
「わかったわ」

 楽進は小動物の様な機敏さで蔵から飛び出し、村の外へと向かって駆けだして行った。
 楽進を見送ると、李典はバンに向き直った。

「ここを引っ張ると開くのね」

 ガチャと音を立て車のドアが開いた。運転席の。
 そのうえ、李典はそのまま稲飯の上を乗り越えようとし始めた。

「運転しないんだから、反対側から乗るもんだ」
「そ、そうなの?」

 きょとんと小首を傾げた彼女は、車のフロントを廻って助手席側へと回り込んだ。
 女の子の体に触れたのは久しぶりだ。柔らかかったとか感想はいったん無視して、アクセルを踏んだ。

「う、動いた!」
「ちょっ、あ、危ないって!」

 片腕を掴まれて引っ張られた。ハンドルは片手で操作しなんとか真っ直ぐ走行できているが、危なすぎる。
 なんとか宥めることに成功し、李典は大人しくなった。助手席に座っている李典は不安そうな、居心地が悪そうな様子で膝に手を置いて竦んでいる。しかしその視線だけは興味津津にバンの中を遠慮なしに動き回っていた。

「李典さん達、もしかして普段は馬で移動してるのか?」
「ええ。そうしないと間に合わないから」

 事もなげに李典は言った。さも普段から馬で移動することが多いかのようだ。この交通機関が発達した現代の中国国内で遊牧生活をしている民族がいただろうか?
 他に質問をしてみてもいくつもおかしい点が見つかる。車の存在すら知らないことばかりか、中国の主要都市の名前を言っても殆ど知らないと答えが返ってくるのだ。
 まるで、まだそこにそれらが存在していないかのような。それこそ別の時代に迷い込んだようなものである。

別の、時代…。

「…………」
「どうしました?」

 あり得ない。あり得るはずはないのだが、乾く喉と唇から声を絞り出した。

「いまって、いつ?」

× × ×

「そんな馬鹿なことが……」

 フロントガラスから見えているのは、映画のワンシーンの様な光景である。
 鎧を纏った兵士らしき人達が簡素に組んだ岩でかまどを作って、いたるところで炊飯の煙が上げられている。初めは映画のロケーションかとも思ったのだがどこを見渡しても撮影機材が見当たらない。

 これは本物だ。

 中国勤務に当たって勉強した資料で見たことのある武器や鎧が現在進行的に使用されている。

『最高の第一資料だ……』

 稲飯は中国語も忘れ母国語で呟いていた。助手席の李典が怪訝そうな表情で稲飯の様子を窺っている。

『このまま博物館に持っていったら全学芸員がひっくり返るだろうなぁ』

「何を喋っているんですか? どこの言葉です?」
「ん? あ、いやちょっとね」

 慌てて中国語で話して誤魔化すと、李典は不思議そうにしながらも前を向き直ってくれた。
 ハンドルを握る手に汗が滲んできた。冗談みたいな話だが自分は今、過去の中国大陸の何処かにいるようだ。思考を整理するため、煙草を吸おうと火を点けたのだが、李典はこの匂いが嫌いなようだったので今は自重することにした。

 集団に近づくにつれて、集団の様子がはっきりと見えるようになってきた。馬がいるということで、驚かさないように徐行して走行していたのだが、想像を超える頭数にまたまた驚いた。

「凄い数だなぁ。何頭いるんだ?」
「官軍の騎兵と比べると少ないですが、千頭ほどいるはずです」
「おいおい……千頭って本当に映画のロケみたいな数だな」
「映画とはなんです?」
「あ、いや」

 言葉に気を付けないといけないな。たとえ中国語で話していたとしても、現代でしか通じない言葉は沢山あるのだから。

 稲井達の乗っている車はさらに野営地へと近づいて行く。

 野営の兵たちが車を発見してぎょっとしているのが見える。なんだか物々しい雰囲気でこちらを睨んでいるやつもいる。

「心配無い! これは無害な代物だ。物見は配置に戻り、仕事の無いものは明日に備えて休んでおくように!」

 李典が態々ドアを開けて前方の集団に声を張った。窓の開け方を教えるのを忘れていた。

「まだ聞きたいことがいっぱいあるんだけどさ」
「大丈夫。私も山ほど聞きたいことがあるので」

4話:出会い

陽は傾き、大地は赤く染まり始めた。

 鉅野から穎川までは、途中休息の時間を設けたとして、一日半ほどかかる。すべての兵士に馬を割り当てることが出来るというのならその限りでは無いが、李乾の軍の構成は騎兵が千、そして残り四千は歩兵である。兵糧などの物資を運ぶ必要もある為さらに行軍速度が落ちてしまう。

 この軍を率いている将のうち、兵站を練ることに長けているのは李典のみである。戦闘中の細かい状況判断等においては、歴戦の猛者である李乾に一日の長があるが、軍や戦闘状況を俯瞰で見ることはある程度兵法に通じている人間でないと務まらない。

 李乾はそれを見越して今回の行軍に李典を連れ出したのである。
それをわかっている李典は少し離れた位置から馬を走らせ、兵の疲労状態や怠慢などを監督している。
 重い荷物に文句を言っている兵を叱咤し発破をかけていると、軍の戦闘にいたはずの楽進が李典の所まで速度を落としてきた。

「曼成さん、でしたよね?」
「え、ええ」
「李乾様から聞いたのですが。私たちは歳が近いようでして。よろしければお友達となってはくれませんか?」
「と、友達、ですか」

 李典はぱちくりと瞬きをした。
 わざわざ近づいてきたのだから軍事的な用件かと思いきや、なんとも気の抜けるような内容であった。

「孟徳様の陣営では、友と呼べる人はいないので」

 楽進は、もちろん皆さん良い方ですけど、と付け加えた。
 何処かの軍に属しているということは誰かの部下になるということであり、そこには忠義はあれども友情といった感覚には発展しづらいのであろう、まだどこにも士官していない李典にはまだ経験は無いのだが。

「別に良いわよ」

 別段断る理由も無い。それに、引き籠りがちな李典にとっても、若い友達が出来るということは嬉しいのである。李典が頻繁に会話を交わす若年の相手というのも、李整か侍女の数人程度であった。

「ホントですか!」

 楽進は喜びのあまり馬上で万歳をして喜色満面である。

「ちょっと、ちゃんと手綱を握らなきゃ」
「あ、そうでした」

 楽進は慌てて手綱を握り直した。

「なんだか心配になる子ね」
「えへへ。よく言われます」

 楽進が頭を掻きながら頬を染めた。

「褒めてないわよ。せっかく友達になるのなら、ちゃんと名を交わさないといけないわ。私の名は李典、字は曼成よ」

 李典が楽進に自己紹介をすると、また彼女の顔には笑顔が咲き、自分も自己紹介を始めた。

「私の名前は楽進。字を文謙と言います。これからよろしくお願いします!」

 楽進がぴしりと背を伸ばすことで、彼女の胸の膨らみが大変強調された。

「あとで色々と聞きたいこともあるわ。お酒でも飲みながら話をしましょう」
「……?」

 李典の苦悶に満ちた表情に、楽進は首を傾げた。

「その話は置いといて。そろそろ野営の準備に取り掛かるよう叔父様に伝えて。私は後ろに着いている整兄様へと伝えに向かうから。そうね……あの先にある平地が良いわ」

 李典が指した先には天幕を張るのに良い塩梅の平地が広がっている。平らな地形でないと天幕を張るのに手間取ってしまい、兵たちが十分に休む時間を取れなくなってしまう。こうして野営地点を決めることも兵站では必要な役割を占めるのだ。
 天幕は陽が沈む前に張り終えることが出来た。あちこちで飯を炊くための煙が上がっている。

「曼成さん!」
「ああ、文兼ね」

 人懐こい笑みを浮かべた楽進がこちらに駆け寄ってきた。わざわざ走る必要は無いと思うのだが。
 楽進は装備を外している。服の上からでもよくわかるほどに。つまり揺れる。上へ下へと縦横無尽だ。

「そう……お酒に誘いに来てくれたのね。それの秘密を話してもらうわ」

 見て見ぬ振りをせねばならない周りの兵士たちが不憫である。ちらほらと見える女性兵士もまた、楽進に羨ましげな視線を向けている。

「何のことです? 秘密なんてありませんよ。私は曹躁様に使いに出されただけで……じゃなかった、お酒のお誘いじゃないんです」
「じゃあ何かしら?」

 楽進は歯切れ悪く説明を始める。

「そのぉ。言いにくいんですけど、頼み事があるんです。私は孟徳様のもとで帳下吏に就いているのですが……今後の為にこの付近の邑の人口を調べるようにとも言われていて……」
「それは戦乱に備えて?」

 李典の言葉に楽進は言葉を失った。

 今の世は、天子によって治められ支えられている。これが大陸の常識であり抗えぬ真実であるはずだ。それに反する考えを持った人間は誅されるというのが世間の常識であった。
 だがそんな時代は終わりを迎えようとしている。政治に無関心な皇帝は私腹を肥やすのに専念し、政治の実権を握らんとする宦官や外戚の専横。政治は腐敗し大陸には怨嗟の声が広がっている。
 漢王朝という大樹が、腐りその幹を地に倒そうとしている。李典はそれをよく理解しているのだ。

「この近くに小さいけれど邑があったはずよ。そこに行ってみましょ。お酒はその後よ」 
「あ、あはいっ! でも私あまりお酒に強くないんでお手柔らかに……」

 楽進はとにかく感心していた。曹操のようにいち早く戦乱の到来を察知できる者がいようとは。李典という人物はなかなかの切れ者なのかもしれないと。
 二人は李乾、李整に用向きを伝えて付近の邑へと向かった。

× × ×

 李典と楽進が馬を走らせ、しばらく行くと極々小さな邑が見えた。
 住人を刺激しないよう、二人は馬を並足で歩かせた。

「ここからは歩きましょう」

 邑に近づいた後は、近くに生えていた木に手綱を括り、徒歩で邑内へと進み入った。
 簡素な木板を葺いた屋根がいくつか点在しているのが確認できる。
 近づくと、道の真ん中で子供たちが遊んでいたり、薪を運んでいる女性がいた。遊ぶ子のうちの誰かの身内であるのか「暗くなったから家に帰んな」などと帰宅を促す声が響いた。
 李典は薪を運ぶ女性に声をかけた。

「もし。ここの長はどちらにお住まいか?」

 女は怪訝そうな表情をしたが、二人が装備をしていないことに気付くと、笑顔を見せて応答した。

「それならあれさね。あの蔵の隣にある家がそうさ」

 女が指さした先には、他の家々の並びから外れた所にぽつりと小屋が見えた。邑の長の住まいであるはずだが、その大きさは他の家と変わらない様に見える。違いがあるとすればその小屋の隣にある蔵くらいである。
 邑長の住まいには腰の曲がった老夫婦が住んでいて、二人を快く迎えてくれた。もてなそうとしてくれた夫婦に丁重に断りを入れ、玄関先で調査を開始させてもらった。聞くと、この村は小さい為に管理に就いている役人はいないらしい。
 楽進は邑長に世帯数と人口を訪ね、書簡へと筆を走らせてゆく。付き添いである李典はすることが無く、ちらりと楽進の持っている書面に目線を向けた。

「文兼……もう少し綺麗に書けないのかしら?」
あっちょっと見ないでくださいよ!」

 楽進は慌てて李典から距離を取ったが、文字はしっかりと見えてしまった。
 楽進の文字は、汚く読めないという程ではないが、これからの軍務や政治に使われる資料としてはいささか雑な見た目であった。見た目の若さや、そのぎこちない言動から察するに、楽進はまだ帳下吏としては駆けだしであるようだ。

「ご、ゴホン――」

 二人の様子をにこにこと見守っていた老夫婦に楽進は赤面し、咳払いを一つして話を続けた。

「邑長殿。この付近でなにか困ったことが起きたりはしていませんでしょうか?」
「そうじゃのう……あぁそうそう。最近、この村の住人ではない者が流れてきての。その者がどうにもおかしな格好をしておって、村の者達が気味悪く思っておるのじゃ」

 来た時には目立つほどに奇抜な格好をした住人はいなかったように思えるが。

「ようわからん白い箱のようなもんに乗ってふらりと現れてなぁ。驚いたわい。神仙や妖怪の類かとも思った者もいたんじゃがどうにも俗っぽくてワシにはそうは思えんのじゃ」
「おかしな格好の流浪者ですか……その人は今どこに?」
「悪人ではないようなんでな。その蔵の中で寝泊りをしておるわ。やつが乗ってきた箱も蔵の中じゃ」

 邑長は隣に立っている蔵を指さした。外見は多少小さめではあるがこの程度の邑の物資を蓄えておくのには十分な蔵である。換気の為の格子窓が付けられてはいるが、位置は高く、そこから中を窺うことはできそうにない。

「なんじゃ帰り方がわからなくなってしもうたとかなんとか言っておったのぅ」

 さらに聞き進めると、異様な風体の男は三日ほど前からこの邑に流れ着き、滞在しているとのことらしい。

「……そうですか。一応会ってみましょう」

 どのような人間かは会ってみないとわからないが、得体の知れない人物は放っておくと何をしでかすか分かったものではない。
 それに、ここで見捨ててしまうことは後々の曹躁の名声に傷が付く火種になりかねない。楽進はその男の様子を窺うことにした。
 蔵を開けても良いか訪ねると邑長は「たまにようわからんこと言ったりするでの、気をつけなさいよ」と言い了承した。
 夕飯を作る為に老夫婦が住まいへと戻って行ったのを確認すると、楽進と李典は蔵の前へと場所を移した。太陽が山に半分以上隠れ、視界が悪くなってきた。 

 楽進は事を急ぎ蔵の扉を叩いた。

「開けますよ!」

 閂を外し蔵の扉を開けると、扉が起こした風で埃が舞った。
 光が差し込む場所は蔵の上部にある格子窓だけである。視界は無いに等しい。

「いるのでしょう。返事をしなさい」

 李典が暗闇に声を掛け少しすると暗闇の中で何かが動いた。どうやら箱型をしているそれは表面が白く塗られているのが闇の中に垣間見えた。その箱の一部分がバタンと開き、中から人間が出てきた。

「んん? 女の子?」

 なんとも聞き取りづらい訛り方をしているが、聞き取れる。声からして男のようだ。
 ゆっくりと近づいて来るにつれて、その様相がはっきりと見えてくる。鼠色をした服を着た比較的若そうな男であった。李整よりは歳をとっているように見えた。

「あなたが流浪者で間違いないですね?」

 李典が聞くと、男は何故か苦笑いを浮かべた。

「流浪者って……帰れるならすぐ帰りたいけど、この辺り電波届いてないし、GPSも使いものにならない。地図があればすぐにでも帰るし流浪ってほど大げさなものじゃないと思うんだけど。現在地がわかるまでここの村長っぽい人に頼んでここに泊めさせてもらってるんだ」

「ちょ、ちょっとゆっくり話して下さい。聞き取りづらいですし、内容もほとんど理解できません!」
「え?」

 楽進が話を制止させると男は、今度は肩を落とし「まだ駄目なのかぁ」とぼやいた。
 今度は男にゆっくりと現状の説明をさせた。全く聞き取れない訳では無いので身振りや手振りを交えれば十分に意思疎通を図れる相手であった。

「貴方の言うぜいぴーえすというのがどういうものかは全くわからないし、山東省という地名にも心当たりは無いですね。楽進あなたは覚えがある?」
「わたしも覚えがありません。南の方でしょうか……」
「そんな馬鹿な。地図があるでしょ? 地図があればすぐに――」
「地図はそうそう手に入るものではないですよ。あったとしても絵地図程度でしょうから、あまり役には立たないでしょう」

 李典の言葉に、男は信じられないことを聞いたかのように目を見開いた。

「精巧な地図を作るのには人手と時間が必要なのですから、当たり前でしょう?」
「何言って……流石にそこまで田舎じゃないだろ。中国広しって言っても山東省はそれなりに発展してる所だし。高速道路走っててなんでそんな田舎に来ちゃったんだ。会った人誰も話が通じないじゃないか……」

 また話の内容がわからなくなってきた。今度は早口という訳ではない。男の口からでる単語の意味がさっぱりわからないということである。これが邑長の言っていたことのようだ。
 わからないことは多いなりに、情報を引きださなければならない。頭を抱えてしまった男に李典は声を掛けた。

「とりあえず、貴方の名前を教えてくれますか?」

 そういうとハッとしたように此方に向き直った。

「あ、ああそうだった。俺の名前は稲飯浩。日本から派遣されて遺跡の調査をやっているんだ」
「稲飯浩殿、ですか。稲飯が姓で浩が名ですね。で日本ってなんですか?」 

 楽進が聞くと、いよいよ稲飯は腰砕けになり、自身が降りてきた白い箱に寄りかかってしまった。
 どうしてここまで取り乱すのか理解できない二人は、ただ顔を見合わせることしかできなかった。

【オーバーウォッチ】もうヒーラー専でいいのかもしれない

どうも。HELPERです。

 

いまだにプラチナ帯に行くことが出来ずにいます…

 

根本的に実力が足りていないということはわかっているけど、こんなにも行けないものかね…ああ、エイムに自信があればDPSでキャリーしたるんですがね!

 

いきなり愚痴っぽくなりました。

 

マイナスっぽいことを言ったわりには、すこーしだけレートをあげることに成功しています。瞬間的には2300まで到達してしまいました(すぐにまた落ちたけど)。

相棒と一緒になってここまで這い上がってきました。

ここまで長かったなぁ。最低レート1300台だったんですよ。それを思えばかなり上ってきましたね!

 

ヒーラーを主に使ってきてこのくらいまでは上がってこれた訳で、すっかりヒーラー専と言っても良い感じになっちゃいました。

このまま行けるとこまで上がってくぞー。

 

そういえば、youtubeで配信をしたときに遊びに来てくれる人も増えてきました。

遊びに来てくれる人が強いとヒールのしがいがあってたまりませんねぇ。

それに、コツとか色々と教えてもらえますしね。感謝してもしきれないです。

 

よろしければ配信に遊びに来てください。

ぜひ、話しましょう。

逸書に遊んでくれればもっと嬉しいです。

 

HELPERでした。では、また。

 


#40【オーバーウォッチ】参加型 ヘルパーさんのテンションがおかしい、、、2200〜 2300〜 - YouTube

 

 

 

 

3話:李氏の才媛

兗州山陽郡の下部に位置する、鉅野という地域がある。山陽郡は袁遺が太守として治める地域である。
 あたりには平野が広がっており、付近を黄河が流れるこの地域は比較的肥沃な大地であるといえる。
鳶の鳴き声が部屋の中まで入り込んでいる。

 部屋に差し込む陽光の角度から、今がちょうど中天の刻であることが窺える。

 部屋の中にはまだあどけなさの残る少女がいた。化粧気もない彼女の白い顔にはうっすらと隈が浮かんでいる。
 両親が他界し、叔父に引き取られこの屋敷にやってきてからというもの、少女は毎日同じような一日を繰り返している。
割り当てられた部屋の文机に腰掛け、書物に目を通す毎日を過ごすようになって、幾日が過ぎただろうか。

「んぅ。首が痛い」

 眉間にあるツボを刺激し、目の疲れを取ろうと思っても、全くもって効果がない。

 名を李典。字は曼成。それが両親から授けられた彼女の名である。彼女にとっては、この名こそが両親が遺してくれた形見なのである。

 李典は、勇猛さで名を知られる李氏に連なるものとしては珍しく武勇を高めることよりも勉学を好んでいる。
 李典の愛読書は、魯国の左丘明によって注釈された『春秋』、通称『春秋左氏伝』である。この書は春秋戦国時代の歴史を、儒学の観点から纏め注釈された、儒学古典の書である。
 古きを訪ね新しきを知る。温故知新とは春秋時代儒教家、孔子の言葉であったが、その言葉の通り李典は過去の歴史にこそ、現在のこの動乱を治める為の鍵があると、そう考えているのである。

「さて、次の巻は」

 と、李典は机上に積まれていた書の山を掻き分けたが、次の巻は見当たらなかった。どうやら書庫から持ってきたものをすべて読み終えてしまったらしい。
 書物の続きを取りに、書庫へと向かおうと席を立ったところではたと気付いた。

「あ、これ持って帰らないといけないんだ」

 部屋へと持って来る時には、新たな知識の吸収に対する期待からあまり気になっていなかったが、明らかに一人で持ち運ぶのにはあまりに多い。一体どうやって持ち込んできたのか、思い出せない。非力には自信があるのだが。

 李典は書物を自室に運び入れてからというもの、ほとんど部屋を出ることも無く毎日『春秋左氏伝』を読み耽っていたのである。侍女に毎回の食事を持って来させ、珍しく外に顔を出していたかと思えば、厠へと行っていただけという徹底ぶりだ。

 引き籠ってから最初のうちは、目覚めてからすぐ机に向かって書を紐解き、夜が更けても夢中になっていたものであったが、侍女が叔父からの伝言を受け取ってきてからは、李典はそれを控えることにした。
 どのような伝言であったのか。早い話が油の節約である。
 宮中に対する反乱や一揆が大陸各地で頻発しているため、山陽群も物資が足りなくなってきているのだ。

 ふと、扉の向こうから室内に声が掛けられた。

「李典様。李乾様からの言伝が」
「わかった。入りなさい」

 今日も叔父からの伝言を受けた侍女が、李典の部屋を訪れた。招き入れると、侍女は礼をした後、言伝の内容を李典に伝えた。

「そう……。一揆の鎮圧に向かうのね」

「はい、烏合の衆とはいえ規模はなかなかのもの。策を講じることのできるものを付き添わせたいと」

 直接言いに来ればいいのに、と李典は溜息を吐いた。

 一度だけ、勉学の邪魔をするなと、扶養されている身でありながら小言を言ったことがある為か、叔父の李乾は李典が引き籠ると、部屋に近づこうとしないのだ。
 断る理由も無いと、李典は頷いた。侍女は李乾に伝える為に部屋を後にした。

 李典はすぐに李乾の元へと向かおうと考えたが、やはり机上の春秋左氏伝などの書物群が気になってしまう。
 乱雑に積まれた書物を、李典は申し訳程度に重ねて置いて、後で侍女の誰かに片づけてもらうよう頼むことにしよう。
 このように、物事に熱中するあまり部屋を汚してしまい、片づけは誰かに一任してしまう人物は往々にしているものである。李典はその悪性に気付いてはいるものの、なかなか直せずにいる。

「やっぱり、戻ってきたら自分で掃除をしましょう」
 李典は一人、決意を固めた。

 李乾はすぐに出立するつもりであろうから、厩に行けば会うことができるだろう。李典は叔父の李乾が待っているであろう厩へと向かった。

× × ×

 温まった気温の影響で、飼い葉と獣の匂いが辺りに立ち込めている。
 李典が厩に着いた時には、そこにはすでに二人が待っていた。叔父の李乾とその息子である李整だ。二人とも装備は整い、後は出発するのみといった様子である。

「おう曼成。ずいぶんと遅かったじゃないか」

 若く威勢のいい声が李典の字を呼んだ。李典の兄の李整である。若いだけにまだまだ青い所もある若武者である。

「お久しぶりです整兄様。お元気そうで」

 李典が会釈をすると、李整は呆れた様子で「久しぶりって、俺はずっと屋敷にいたんだが」と言った。

「しかし最近は整兄様の顔を見た記憶が無いのですが」

 李典は首を傾げた。頭の後ろで一つに纏めている髪が揺れた。

「それは曼成が部屋に籠ったきり出てこないからだろう」

 そう言ったのは、李整の父親であり、李典の親代わりでもある李乾だ。

 李乾は、馬の頭の位置を優に超える大男である。髪は逆立ち、その気性の荒さを物語っている。肩に抱えている槍は普通の体躯では持ち上げることもかなわないほどの重さである。

「曼成。物資の乏しい昨今。あまり夜更けまで油を使うのは駄目だ。たまには外に出て鍛練でもしたらどうだ。カビが生えてしまうぞ」
 
 窘めるように李整が言った。

「ですが叔父様。私は勉学にて研鑽を積まねばならぬのです。そうしなければ独り立ちできませぬ」

「あ、おい! 親父に言うのはずるいぞ」
 
李整は焦ったように李典を指さした。

 質実剛健で義に篤いことで知られる李乾には、弱みがある。娘同然に思っている李典に対してはとても甘いのである。

「整。曼成はこう言っておるが?」
「お、親父ぃ……」

 にべもなし。父親にこう言われてしまっては、力無い李整にはどうにもすることはできないのである。

「嗚呼、一人で暮らしたい」李整は大きな溜息を吐いた。

「一人じゃ何も出来ん馬鹿息子が。なにを言う。お前も曼成を見習い、たまには書を読んだらどうじゃ」

 呟く程度の大きさだというのに、李乾は耳聡く聞き付け厳しく言い放った。

「親父。俺に対して厳し過ぎやしない?」
「足りんくらいだ」眉間の皺と、真一文字に結ばれた口が不機嫌なことを表している。

 李整は二度目の溜息を吐いた。

「二人とも。準備が整ったならさっさと出立するぞ」

 李乾は傍らに止まらせていた馬に跨ると、二人にも騎乗するよう促した。普通の鍛え方では歩くことが出来ないほどの重さの鎧が、がちゃりと鳴った。

「私は鎧をまだ着ていないのですが」
「お前を前線に出す訳が無いだろう」
「甘やかしだろう……いや、なんでもない」

 李乾に睨まれた李整は、誤魔化すように自分の馬に乗った。
李典もそれに倣って騎乗したところで、門の向こうから厩へと近づく蹄の音が聞こえてきた。

「李乾様。出立の準備はできましたでしょうか」
「おお楽進殿。たった今出立の準備が整った所じゃ」

 李乾が好意的に振舞ったところからして、すでに顔を見知っているようである。
 楽進と呼ばれた真面目そうな女は、拳や脛などに最低限の防具のみを装備している。どうやらこの者も戦闘を行う人材らしい。しかし、あの胸の物は戦うのに不利益を生むのではないだろうか、自分は戦わないので、有ろうが無かろうが関係は無いのだが。

 李典が自分の胸元に集中している間も、楽進は真面目に話を続けていた。

「そうでしたか。でしたらすぐに穎川、長社の地へと出軍してくださいませ」
「長社だと。合流地点は小沛ではなかったのか」

 李乾が尋ねると、楽進は背筋をしゃっきりと伸ばし、はきはきとした口調で答えた。

「状況が変化したのです。黄巾賊が穎川にて蜂起し、官軍が窮地に陥っているという報に応じて、曹操様はその援軍に向かうことを決意しました」

「ほほう。それほど信用されておる。と考えてよろしいのじゃな」

 楽進は頷いた。
 曹操はまだ若く、自身の軍もそれほど大きいものは配していない。もしここで李乾が合流を取りやめると言った場合、穎川への援軍として機能しないばかりか、出来もしないことを言う不正直者として世間に認知されることになる。つまり、曹操は李乾が必ず合流するということを確信しているのだ。

「李乾様は義に篤い人物と聞き及んでおります」

楽進が言った。だがそれに答える李乾の声は低かった。

「……ふん。儂は煽てられるのは好かんぞ」
「あ、いやそのこれは……!」

楽進は先程までの理路整然とした様子からは打って変わり、おたおたと焦り出した。

「い、今の台詞はわ、私が勝手に付け足したことであって、曹躁様に言えと言われていた訳では……あう」

同じく女である李典から見たところ、先程までの楽進の態度よりも、こちらのほうが楽進の素であるような気がする。若輩者として親近感が湧いてしまうとともに、危うげで心配である。
慌てる楽進の乗っている馬も、心なしか主人に対して心配そうな感情を湛えているように見えた。

「冗談じゃ。無論、儂らは曹操殿にご助力を惜しまん」

 李乾がそう言うと、楽進は安心したのかふわりと表情を綻ばせた。

「本隊から新たに送られてきた伝令によりますと、曹躁様は翌日の日没後に合流されることを望まれているようです!」

楽進の語気にはまさしく喜びが滲んでいる。

「夜陰に乗じる算段であるな。ふむ、長社であれば、今から発てば丁度良いであろう」
「それでは出発しましょう!」

楽進は、自分が先導するからと言って町の門の方へと一直線に走り去って行った。

「さあ、李整、李典! 我らは楽進殿に随行し、曹操軍へと合流するぞ!」
「なあ曼成。親父が冗談なんていうの久しぶりに見たんだが、どう思う?」

 李乾が楽進と話す様子を遠巻きに見ていた李整が、同じく隣で見ていた李典へと話しかけた。地獄耳の父親に聞かれないよう、出来る限り馬の間隔を近づけながらだ。

「信頼されて嬉しかったのでしょう。曹躁様は聡明な方と聞きますし」
 そこまでしなくてもと内心呆れながらも、李典は律儀に思った通り答えた。

 それに対して李整は「わかってないなぁ」などと心外なことを言いながら得意げに続けた。

「それにしたって親父にしちゃあでれでれし過ぎだ。あの子が若かかったからあんなこと言いだしたんだぜきっと――うがっ」

 急に李整が唸って頭を押さて痛がりだした。騎馬と共に音も無く近づいた李乾が息子の後頭部を思い切りぶん殴ったからであった。李乾は兜を被っていたからといって威力が抑えられるような腕っ節ではない。生木で殴られたような衝撃が、李整の脳天に響き渡った。

「馬鹿なこと言っとらんで、早く軍を纏めに行かんか。置いて行くぞ!」
「整兄様。私も先に行きますね」
「ちょ、俺に全軍引っ張って行けって言うのかよ! そりゃないって!」

 李整は慌てて馬を走らせた。

 地方豪族の一人である李乾は食客数千家を集め、曹操旗下に入ることになっていた。すでに曹操の元へと出立する為、町の外に軍が敷かれている。その数、一族含め五千人。それだけの数を一人で引っ張って行けなどとは無茶な話である。

「やっぱり厳しすぎるって!」

 李整は泣きそうになりながら、先に出て行ってしまった三人を追った。

 桃の花が咲き始め温かくなってきた筈であるのに、寒風吹き荒れる厳しい冬が立ち戻ってきたかのように錯覚される。
 流石に息子一人に任せるのは不味いと考えたのか、屋敷の門を出た所に李整が待っていて、一言「精進せい」とだけ言い放って軍を敷いている町の外へと走って行った。
 李整は二の句が継げず、口角を引き攣らせながら、それに続いた。

 

2話:夢を見ているか

 煙草の吸殻が灰皿から溢れる。
 現地の言葉で流れるラジオからはこの渋滞は三時間あまりの規模になり、緩和にはまだまだ時間が掛かるという内容がずっと流れている。

「あー。どうすんだこれ」

 苛々とハンドルを指で叩きながら、頭を掻いた。

 稲飯浩は遺跡調査員である。

 大学卒業の後すぐ、かねてからの夢であった学芸員になり、茨城の博物館で働いたが、想像していたものとは違いデスクワークばかりの毎日に嫌気がさし、6年契約であった博物館職員をわずか2年で辞めてしまった。その後、大学生のころにバイトをしていたRESという遺跡調査の会社に正式に雇用される形となって今に至る。

 そして、職を変更したことが自身の生活様式を一変させることになる。

 RESでアルバイトをしていた時には、日本国内で行われている発掘調査にしか参加したことは無かった。
 しかし、この会社はアジア圏の各国に助人として調査員を送り込むといった業務内容も含まれていることをすっかり見落としていたのだ。

 現場での仕事を始め一年半程過ぎたある日、会社で報告書をまとめている自分の肩を叩いた後、社長が言った言葉を忘れることができない。

「稲飯君。君中国語できたよね?」

 こうして稲飯は派遣調査員の中国担当となってしまったのだ。
 バイト時代に、中国語を勉強しているなどと言わなければこうはならなかったと後悔の日々を送っているわけである。

 社長は簡単に言ったが、中国語と一口に言っても稲飯が勉強していたのは共通語として用いられている北京語である。

 中国大陸は広い。日本国内であっても、北と南で話す言葉に特徴の違いが見受けられる。同様に、同じ中国大陸内でも全く違う言語を話す地域が多く存在するのだ。
 そして現在、作業をしている地域は山東省。渤海黄海に突き出した半島があり、遼東半島と向かい合った位置にある。この辺りは方言のきつい人が多く住んでいる。

 北京語を使わない地域での仕事はとても気を使うものであった。

 稲飯はダッシュボードに置いてあった緑表紙の手帳を手に取った。手帳には多くの単語が書かれ、標準の発音の隣に、現在の仕事場である三東省で使われている方言の発音が書かれている。その他この地独自の言い回しや、禁句などで幾ページも埋まっている。

 三東省での方言は、中国方言でよく例に挙げられる広東語、上海語、福建語のどれとも違うものであり、初めは数字すら聞き取ることもできない始末であった。 
 
 なんとか筆談で意思疎通は図れるものの、現地の人間には面倒なものであったはずだ。あまりにわからないものだから、現地人に何故わからないんだと怒鳴られたこともあったが、申し訳ないことにその時はそれすらも何を言っているのかわからなかった。

 そのため、使っている言葉に齟齬が生じた時にはその都度メモを取っていくことにしたのだ。稲井にはもうすっかり癖になってしまっている。
 時折そのメモを見直して、発音の矯正をするようにしているのだ。

 その努力のかいもあって、今では一人で外食も可能なくらいのコミュニケーションを図れるようになったのだ。

「そうだ……。これだ、この間聞き取れなかったの」
 稲飯ば三色ボールペンの色を赤に変え、要チェックの印を着けた。

 そして、今の現場で27歳の誕生日を迎え同僚たちに祝われた時、気の良い小話の一つもできるくらいには現地人に馴染むことができたわけである。今では友と呼べる人も何人かできた。
 また一つ、この地に馴染んで行くことを実感しつつ、稲井は手帳をダッシュボードの上へと置き直した。

「んー。携帯どこやったかな」
 稲井は後方へと手を伸ばした。

 ワンボックスタイプのライトバンであるこの車両の後部には貨物領域になっており、発掘調査に必要な道具類が一式積み込まれている。掘り道具や、測量のための道具、そして重機用の燃料など様々である。
 隅に置かれている、私的な荷物の入っている鞄を引き寄せると、ポケットから携帯電話を取り出した。
 数コールの呼び出し音の後、相手が受話器を取った。

「もしもし、袁さんですか」
『嗚呼。稲井サン。どうしタ』

 電話口から聞きなれた中国語訛りの日本語が聞こえてくる。たどたどしくあるが、なぜか親しみを持ってしまう声だ。
 彼の名は袁恩来。稲井の中国赴任におけるパートナーとも言える人物であり。彼もまた遺跡の発掘調査をしている。こちらで調査を始めてから初めにであった人物で、今では普段から一緒に連れだって飲み歩くほどの仲である。

「そのぉ。渋滞に捕まっちゃいまして」
 稲井が言うと、袁は納得がいったとばかりに笑った。

『ナルホド。だからまだ来ていないノカ。風邪でも引いたのかと心配しタゾ』

「ええ。まだ三時間くらいは動かないみたいで。」

『栄烏高速道路ダナ』

 この高速道路の渋滞は有名なようで、すぐに走っている場所を言い当てられた。

「ええ、まあ」

『ならば、今日のところはゆっくりで構わないゾ。道具はちょっと足りないケド』
「申し訳ないです。なんとか午後には荷物をもってそちらに到着できるようにしますので」

 事前の情報不足ということで、非は全面的に此方にある。稲井は携帯越しに頭を垂れた。
 今日の自分の仕事は道具の運搬で、そのまま帰ることになりそうだ。まだ何もしていないというのに、どっと疲れが押し寄せた。稲井は肺に入っていた空気をすべて吐き出した。

『そうそう、稲井サンのとこには情報が入っているか?』
 唐突に袁が話を切り替えた。

「え。なんのことです?」

『僕が調査してる別の場所で、妙な遺物を発見したんダヨ』

「妙な遺物?」

『是。何かの文字が書いてあるのは読めるんだケド、かなり擦れてるし、ドウヤラ漢字ではないようなんだ』

 確か現在袁さんが担当している現場は今向かっている場所と河南省のどこかなはずだ。

『一列に五つの文字が並んで十列ダ。もしかしたら詩なのかもしれないナ』

「漢語ではない詩ですか。それは興味深いですね」

『後で画像を送ってやる。時代は後漢末期である可能性が高いって話ダ』

 後漢末期と言えば、三国志で有名な時代ではないか、男心がくすぐられるな。

「嬉しいです。お願いします」

『こっちはぼちぼち作業を始めるとするよ。稲飯君はくれぐれも安全運転でな。ハハ』

「はい」

 通話が終了したが、車はほんの数十メートル程度しか動いてはいない。今日中に辿り着けるかどうかも怪しくなってきている。

「……さて。とりあえず、報告書をまとめないといけないのか」

 窓の外を眺めてみるが、高速道路のフェンスのずっと向こう側に山々が連なっているだけの、のどかな景色が広がっているだけである。見ていて暇を潰せるようなものは存在しない。
 稲飯は通話の為に音量を下げていたラジオのつまみを捻った。
 聞こえてきたのはやはり渋滞が三時間超の大規模であるという報であった。

「さてと……面倒だなぁ」

 稲飯はノート型PCを立ち上げ、膝の上に置く。派遣調査員である稲飯には、本国の会社へと定期報告書をまとめる義務があるのだ。
 新たに検出された遺構などの写真と、その補足説明を添えたデータを纏めていく。

 面倒だと言う反面、稲飯はこの派遣調査を楽しくも思っていた。なぜなら、日本での調査では取り上げるどころか、出土することすら珍しい遺物が出てくるのである。これほど珍しい体験をすることができるのは、考古を学んだ者としては嬉しい限りなのである。
 郷に入っては郷に従え、というように、日本での調査との勝手の違いにもめることも多くあったが、それ以上に楽しかった。

 稲飯はカタカタとキーボードを叩く指を止め、ホルダーに入っている温くなったお茶に口をつけた。

「まあ、こんな所か」

 まだまだ詰めるべきところはあるが、大体の体裁は整った、あとは部屋に戻った後に手直しをすればいい。

「……暇になっちまった」

 稲飯は煙草を取り出し火を点けた。

「あ」灰を落とそうとした手が空を彷徨う。

 備え付けの灰皿はいっぱいになっている。仕方無しに、稲飯はいつも胸ポケットに入れてある携帯灰皿に灰を落とした。

「ん?」

 ふと、稲飯はラジオから今までの道路交通情報とは違った内容が流れていることに気付いた。
そのラジオ音声は先ほどとは打って変って、ノイズ混じりのものであった。

『昔者、荘周夢為胡蝶。
 栩栩然胡蝶也。
 自喩適志与。
 不知周也。
 俄然覚、則遽遽然周也。
 不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
 周与胡蝶、則必有分矣。
 此之謂物化。』

 よくよく聞けば、これは有名な胡蝶の夢の全文である。
 何故だか稲飯は聞き入ってしまう。
 宋国の荘周という男が蝶となり、自由な世界に満喫している。ふと目覚めれば自分は荘周のままであった。荘周は自分が蝶になる夢を見ていたのか、それとも蝶が荘周になる夢を見ているのかがわからなくなってしまった。というような内容だったはずである。

「なんでこんなの流してんだ」

 正気に返り、耳障りになった稲飯は、つまみを回し別の周波数に合わせてみた。だがどこも此の詩が流されている。
 一詩詠み終わるとまた初めから胡蝶の夢が詠まれ始める。

「なんか近づいてきてる、のか?」

 詠み終るたびに、詩の読み手がだんだん近づいているかのように、音量が大きくなっている。

「…………」

 稲飯の首筋に怖気と冷や汗が滲んだ。
 言葉を失った稲飯が見たのは、さっきまでウィンドウから見えていた、のどかな景色ではなかった。
 窓の向こうはうねる様にいくつかの景色が混ざり合っていた。別の色の絵具を中途半端に混ぜ合わせたような状態だ。

「…………う」

 常軌を逸した光景に胃の中身が景色と同じように絞られる。
 そしてついに、その声は耳元で話しかけられているのではないかと錯覚するほどに接近した。

『哪个是你的梦?』

 その言葉を最後に、稲飯の意識は暗転した。
 

三國開拓志

【あらすじ】

三国志の戦乱の時代に現代から男が一人紛れます。

史実を元にはしていますが、史実通りに話は運ばれません。
そもそも書籍における三国志があいまいな部分もありますし、三国志演義なんていう大衆向けに改変された話もありますから。多少の改編はやむなしです。やりたいようにやります。

 

【目次】

第1話:蒼く燃ゆる瞳

第2話:夢を見ているか

第3話:李氏の才媛

第4話:出会い

第5話:困惑と気付き

第6話:黄巾蜂起

第7話:機を見るに敏なり

第8話:力添え

第9話:古きを考える喜び

第10話:壺の径は100cm強であった

第11話:子供臭いスモーカー

第12話:仕事を得たり

第13話:信賞必罰の女

第14話:来訪

第15話:来訪-2

 

1話:蒼く燃ゆる瞳

『蒼天己死。黄天当立。歳在甲子。天下大吉。』

 蒼天は既に死に、今まさに黄天の世が訪れるときである。そんな声が野に響きだしたのはいつ頃からであったか。
 宮中が腐敗し、人心は乱れ、世に不安の影が差している今、新たな世が訪れ天下に平安がもたらされるというこの言葉に、すがってしまう人間がいることは仕方のないことであろう。
 だが、人民の淡い期待に反して世は動乱し、長きに渡る戦乱の時代が幕を開けるのだ。

 千の騎兵を連れだって砂塵を巻き挙げる集団がいた。部隊を引き連れているのは三人のうら若い将であった。装備は十分とは言い難いものの、その面構えは勇壮で意気軒高である。

「孟徳。何を笑っているんだ」
「ふふ、先程の言葉を思い出すとどうしても顔がにやついて仕方がないのよ」

 愉快そうに声を上げ笑うと、馬の腹を蹴り団体を引き離してしまった。

「おうい。まったく大将があんなに気楽にやってて大丈夫なのかね」

 取り残された一人が不平を漏らした。

 大地に馬蹄を打ち付け、風を切って走っているのは曹操豫州沛国出身の娘である。
 彼女は大宦官曹謄の孫に当たる。孫とは言うが直接的な血の繋がりは無く、曹謄の養子である曹嵩が実父である。

 取り残された二人は夏侯氏の若者、夏侯惇夏侯淵の姉妹である。
 曹嵩が養子に入る前の姓は夏侯であり、曹操を含めた三人は従姉妹であり同郷の徒である。そのため幼少のみぎりから行動を共にすることが多かった。

「走れ走れ! ハハハ!」

 若き曹操は幼名を阿瞞といい、手のつけられないお転婆であった。その時からすでにその才覚を発揮し、大人たち幾度となく騙したり、野良犬を追い回してみたりと、放蕩三昧で素行が悪かった。
 ある時、人材発掘の天才と呼び声の高い、洛陽大尉の橋玄は「天下は今まさに乱れようとしているが、並々な才能を持った人間では天下は救えぬ。だが、君ならあるいは」といまだ無名であった曹操を評価し、曹操はこれに心服し彼を師事した。

 天下の為に行動を開始しようとした曹操であったが、名声が無いことを橋玄に指摘され、許子将という、これまた人物鑑定の名士に、自身の評価を願うことにしたのだ。

今現在その遠足の帰りなのである。馬の鼻先は彼女らの故郷である沛国へと向かっていた。

「しかし、大将はなんであんなに喜んでるんだ。どう考えても喜ぶような評価じゃ無かっただろうに」
夏侯淵は隣で馬を走らせる従姉へと尋ねた。

 その疑問ももっともなことで、許子将は自身のことを評価せよと詰め寄った曹操に対して「お前は治世の能臣、そして乱世の姦雄である」と評したのだ。

「正直、あの許子将とかいうやつが言ってたことの意味、あんまり解ってないんだけどなぁ」

 夏侯淵は頭を掻いた。

 足らぬ従妹に溜息を漏らすと、彼方を行く曹操の背を見つめながら、夏侯惇は答えた。

「孟徳が必要としていたのは名声だ。許子将に評価される、ということ自体が名声を得ることに繋がるのだ。橋玄様はそのことを踏まえ、助言を下さったのだろう」

 言うが早いか、夏侯惇は馬の腹を蹴り、主に倣って馬の速度を大いに上げた。

「いや、わからんが。お、おい待ってくれよぉ!」

 後ろを着いて来る兵を置いて行くわけにもいかず、彼女は行軍速度をそのままに、後方から弱々しい声を上げるしかなかった。

 夏侯惇が後ろから迫るのを確認した曹操は、馬の速度を落とし夏侯惇と並走した。
 夏侯惇は、美人ではあるが笑顔の乏しい表情で主に話しかけた。

「孟徳。国に戻ったら、まずはどうするつもりなのだ」
「ふふ、言うまでも無いでしょう?」

 曹操は秀麗な表情そのままに、ただ口角を上げただけで要領を得ない。仕方なく、夏侯惇は自分の予想を口にする。

「更なる名声を得るために、賊を打ち果たすか」

 夏侯惇の推測を聞き入れた曹操はまた愉快そうに笑った。

「む」

 右方から三つの砂塵が見えた。荒野を一直線に駆け、曹操の元へと向かってくる。
 曹操夏侯惇は馬を立ち止まらせ、砂塵を確認した。

 砂塵の主は馬に乗った兵士であった。
 曹操はその装備に見覚えがあった。

「火急の用事の為馬上から失礼する。そなたが曹将軍であらせられるか!」

 兵士の一人が、馬上から曹操へと声を張った。

「いかにも! 私が曹孟徳である」

 曹操が昂然と居直り答えると、兵士三人は顔を見合わせ、そして向き直り、続けた。

「我ら、朱儁将軍の命により曹将軍へと援軍の要請の為参った次第であります。穎川で行われし黄巾賊討伐において劣勢を極める我らに助力を請う、とのこと」

 なるほど確かにこの鎧は大将軍の何進が抱えている軍の装備に違いない。兵士は三人共に良く肩が張っていて、よく訓練されていることが分かる。

 朱儁と言えば、右中郎将であり天子直属の軍を指揮する立場にある。かなりの地位にある人物だ。
 曹操はすでに宮中から騎都尉に任命されており、洛陽の守護を任されている立場である。同じく洛陽を守る立場にある中郎将の朱儁が、まず曹操に助力を請うことは当然のことであった。

「賊の規模は」曹操が尋ねた。

「三万でござる」
「さ、三万だと!」

 兵士が答えると、夏侯惇が目を見開いて驚いた。

 黄巾賊は太平道と呼ばれる宗教集団に属した農民の集まりと聞いている。三万という規模はあまりに現実味がない。

「我が軍は四万の十分な兵でもって当たったのですが、各地の連戦で疲弊した我が軍に、賊の勢いは激しくなり……。現在は皇甫嵩将軍と共に、長社にて籠城をして凌いでおります」

 兵士はあくまで礼を失することなく話を続けようとしていたが、内心焦っていることが透けて見えた。

「どうやら敵も馬鹿ではなかったようだな。一斉蜂起を始めたと見える」曹操が呟いた。

「その通りにございます。糧食乏しく、このままでは数日と持たないと思われます」

 兵士から説明を受ける曹操は、終始神妙な面持ちで、事の重大さを受け止めているように見受けられた。
 たかが農民に、天子からの勅令により動いている官軍が打ち破られたとなっては、それこそ一揆を盛り上げることになってしまうからだ。

「聞いたな。元譲」

 振り返った曹操の表情にはすでに深刻さは無く、天の利が到来したことを喜ぶものへと変貌を遂げていた。どうやら猫を被っていたようだ。いつものことだが。
 夏侯惇が頷くと、曹操は再び神妙な表情を作り、兵士に向き直って言った。

朱儁皇甫嵩両将軍に伝えよ。我らはこのまま長社へと援軍に向かうと」
「はっ」

 兵士は安心した様子で、安堵の笑みを浮かべた。そして一転して、元来た方角へと駆けて行った。

「ああは言ったが、我らの戦力はたかだか千の騎兵。援軍としては心許ないのではないか?」

 小さく遠のいて行く砂塵を見送りながら、夏侯惇は呆れていた。敵は三万、いくら我が千人の騎兵たちが精強であったとしても、多勢に無勢。散々に打ち破られるのが関の山である。
 だが曹操はなんとはなしに言ってのけた。

「戦い方によるわよ。すでに手は打ってあるわ。洛陽を発つ前に、志有る人物に文謙を使いにやってあるし」
「……そうか。ならば追ってそちらに伝令を出さねばな。誰かある!」

 夏侯惇は後方へと命令を出した。

 数人の伝令を放った後、沛国への行軍を取りやめ、曹操軍は一路穎川へと馬を走らせた。
 ついに私の覇道への第一歩を踏み出す時が来た。曹操は遠く広がる荒野を見つめながら、野心の炎を燃やしていた。