4話:出会い
陽は傾き、大地は赤く染まり始めた。
鉅野から穎川までは、途中休息の時間を設けたとして、一日半ほどかかる。すべての兵士に馬を割り当てることが出来るというのならその限りでは無いが、李乾の軍の構成は騎兵が千、そして残り四千は歩兵である。兵糧などの物資を運ぶ必要もある為さらに行軍速度が落ちてしまう。
この軍を率いている将のうち、兵站を練ることに長けているのは李典のみである。戦闘中の細かい状況判断等においては、歴戦の猛者である李乾に一日の長があるが、軍や戦闘状況を俯瞰で見ることはある程度兵法に通じている人間でないと務まらない。
李乾はそれを見越して今回の行軍に李典を連れ出したのである。
それをわかっている李典は少し離れた位置から馬を走らせ、兵の疲労状態や怠慢などを監督している。
重い荷物に文句を言っている兵を叱咤し発破をかけていると、軍の戦闘にいたはずの楽進が李典の所まで速度を落としてきた。
「曼成さん、でしたよね?」
「え、ええ」
「李乾様から聞いたのですが。私たちは歳が近いようでして。よろしければお友達となってはくれませんか?」
「と、友達、ですか」
李典はぱちくりと瞬きをした。
わざわざ近づいてきたのだから軍事的な用件かと思いきや、なんとも気の抜けるような内容であった。
「孟徳様の陣営では、友と呼べる人はいないので」
楽進は、もちろん皆さん良い方ですけど、と付け加えた。
何処かの軍に属しているということは誰かの部下になるということであり、そこには忠義はあれども友情といった感覚には発展しづらいのであろう、まだどこにも士官していない李典にはまだ経験は無いのだが。
「別に良いわよ」
別段断る理由も無い。それに、引き籠りがちな李典にとっても、若い友達が出来るということは嬉しいのである。李典が頻繁に会話を交わす若年の相手というのも、李整か侍女の数人程度であった。
「ホントですか!」
楽進は喜びのあまり馬上で万歳をして喜色満面である。
「ちょっと、ちゃんと手綱を握らなきゃ」
「あ、そうでした」
楽進は慌てて手綱を握り直した。
「なんだか心配になる子ね」
「えへへ。よく言われます」
楽進が頭を掻きながら頬を染めた。
「褒めてないわよ。せっかく友達になるのなら、ちゃんと名を交わさないといけないわ。私の名は李典、字は曼成よ」
李典が楽進に自己紹介をすると、また彼女の顔には笑顔が咲き、自分も自己紹介を始めた。
「私の名前は楽進。字を文謙と言います。これからよろしくお願いします!」
楽進がぴしりと背を伸ばすことで、彼女の胸の膨らみが大変強調された。
「あとで色々と聞きたいこともあるわ。お酒でも飲みながら話をしましょう」
「……?」
李典の苦悶に満ちた表情に、楽進は首を傾げた。
「その話は置いといて。そろそろ野営の準備に取り掛かるよう叔父様に伝えて。私は後ろに着いている整兄様へと伝えに向かうから。そうね……あの先にある平地が良いわ」
李典が指した先には天幕を張るのに良い塩梅の平地が広がっている。平らな地形でないと天幕を張るのに手間取ってしまい、兵たちが十分に休む時間を取れなくなってしまう。こうして野営地点を決めることも兵站では必要な役割を占めるのだ。
天幕は陽が沈む前に張り終えることが出来た。あちこちで飯を炊くための煙が上がっている。
「曼成さん!」
「ああ、文兼ね」
人懐こい笑みを浮かべた楽進がこちらに駆け寄ってきた。わざわざ走る必要は無いと思うのだが。
楽進は装備を外している。服の上からでもよくわかるほどに。つまり揺れる。上へ下へと縦横無尽だ。
「そう……お酒に誘いに来てくれたのね。それの秘密を話してもらうわ」
見て見ぬ振りをせねばならない周りの兵士たちが不憫である。ちらほらと見える女性兵士もまた、楽進に羨ましげな視線を向けている。
「何のことです? 秘密なんてありませんよ。私は曹躁様に使いに出されただけで……じゃなかった、お酒のお誘いじゃないんです」
「じゃあ何かしら?」
楽進は歯切れ悪く説明を始める。
「そのぉ。言いにくいんですけど、頼み事があるんです。私は孟徳様のもとで帳下吏に就いているのですが……今後の為にこの付近の邑の人口を調べるようにとも言われていて……」
「それは戦乱に備えて?」
李典の言葉に楽進は言葉を失った。
今の世は、天子によって治められ支えられている。これが大陸の常識であり抗えぬ真実であるはずだ。それに反する考えを持った人間は誅されるというのが世間の常識であった。
だがそんな時代は終わりを迎えようとしている。政治に無関心な皇帝は私腹を肥やすのに専念し、政治の実権を握らんとする宦官や外戚の専横。政治は腐敗し大陸には怨嗟の声が広がっている。
漢王朝という大樹が、腐りその幹を地に倒そうとしている。李典はそれをよく理解しているのだ。
「この近くに小さいけれど邑があったはずよ。そこに行ってみましょ。お酒はその後よ」
「あ、あはいっ! でも私あまりお酒に強くないんでお手柔らかに……」
楽進はとにかく感心していた。曹操のようにいち早く戦乱の到来を察知できる者がいようとは。李典という人物はなかなかの切れ者なのかもしれないと。
二人は李乾、李整に用向きを伝えて付近の邑へと向かった。
× × ×
李典と楽進が馬を走らせ、しばらく行くと極々小さな邑が見えた。
住人を刺激しないよう、二人は馬を並足で歩かせた。
「ここからは歩きましょう」
邑に近づいた後は、近くに生えていた木に手綱を括り、徒歩で邑内へと進み入った。
簡素な木板を葺いた屋根がいくつか点在しているのが確認できる。
近づくと、道の真ん中で子供たちが遊んでいたり、薪を運んでいる女性がいた。遊ぶ子のうちの誰かの身内であるのか「暗くなったから家に帰んな」などと帰宅を促す声が響いた。
李典は薪を運ぶ女性に声をかけた。
「もし。ここの長はどちらにお住まいか?」
女は怪訝そうな表情をしたが、二人が装備をしていないことに気付くと、笑顔を見せて応答した。
「それならあれさね。あの蔵の隣にある家がそうさ」
女が指さした先には、他の家々の並びから外れた所にぽつりと小屋が見えた。邑の長の住まいであるはずだが、その大きさは他の家と変わらない様に見える。違いがあるとすればその小屋の隣にある蔵くらいである。
邑長の住まいには腰の曲がった老夫婦が住んでいて、二人を快く迎えてくれた。もてなそうとしてくれた夫婦に丁重に断りを入れ、玄関先で調査を開始させてもらった。聞くと、この村は小さい為に管理に就いている役人はいないらしい。
楽進は邑長に世帯数と人口を訪ね、書簡へと筆を走らせてゆく。付き添いである李典はすることが無く、ちらりと楽進の持っている書面に目線を向けた。
「文兼……もう少し綺麗に書けないのかしら?」
「あっちょっと見ないでくださいよ!」
楽進は慌てて李典から距離を取ったが、文字はしっかりと見えてしまった。
楽進の文字は、汚く読めないという程ではないが、これからの軍務や政治に使われる資料としてはいささか雑な見た目であった。見た目の若さや、そのぎこちない言動から察するに、楽進はまだ帳下吏としては駆けだしであるようだ。
「ご、ゴホン――」
二人の様子をにこにこと見守っていた老夫婦に楽進は赤面し、咳払いを一つして話を続けた。
「邑長殿。この付近でなにか困ったことが起きたりはしていませんでしょうか?」
「そうじゃのう……あぁそうそう。最近、この村の住人ではない者が流れてきての。その者がどうにもおかしな格好をしておって、村の者達が気味悪く思っておるのじゃ」
来た時には目立つほどに奇抜な格好をした住人はいなかったように思えるが。
「ようわからん白い箱のようなもんに乗ってふらりと現れてなぁ。驚いたわい。神仙や妖怪の類かとも思った者もいたんじゃがどうにも俗っぽくてワシにはそうは思えんのじゃ」
「おかしな格好の流浪者ですか……その人は今どこに?」
「悪人ではないようなんでな。その蔵の中で寝泊りをしておるわ。やつが乗ってきた箱も蔵の中じゃ」
邑長は隣に立っている蔵を指さした。外見は多少小さめではあるがこの程度の邑の物資を蓄えておくのには十分な蔵である。換気の為の格子窓が付けられてはいるが、位置は高く、そこから中を窺うことはできそうにない。
「なんじゃ帰り方がわからなくなってしもうたとかなんとか言っておったのぅ」
さらに聞き進めると、異様な風体の男は三日ほど前からこの邑に流れ着き、滞在しているとのことらしい。
「……そうですか。一応会ってみましょう」
どのような人間かは会ってみないとわからないが、得体の知れない人物は放っておくと何をしでかすか分かったものではない。
それに、ここで見捨ててしまうことは後々の曹躁の名声に傷が付く火種になりかねない。楽進はその男の様子を窺うことにした。
蔵を開けても良いか訪ねると邑長は「たまにようわからんこと言ったりするでの、気をつけなさいよ」と言い了承した。
夕飯を作る為に老夫婦が住まいへと戻って行ったのを確認すると、楽進と李典は蔵の前へと場所を移した。太陽が山に半分以上隠れ、視界が悪くなってきた。
楽進は事を急ぎ蔵の扉を叩いた。
「開けますよ!」
閂を外し蔵の扉を開けると、扉が起こした風で埃が舞った。
光が差し込む場所は蔵の上部にある格子窓だけである。視界は無いに等しい。
「いるのでしょう。返事をしなさい」
李典が暗闇に声を掛け少しすると暗闇の中で何かが動いた。どうやら箱型をしているそれは表面が白く塗られているのが闇の中に垣間見えた。その箱の一部分がバタンと開き、中から人間が出てきた。
「んん? 女の子?」
なんとも聞き取りづらい訛り方をしているが、聞き取れる。声からして男のようだ。
ゆっくりと近づいて来るにつれて、その様相がはっきりと見えてくる。鼠色をした服を着た比較的若そうな男であった。李整よりは歳をとっているように見えた。
「あなたが流浪者で間違いないですね?」
李典が聞くと、男は何故か苦笑いを浮かべた。
「流浪者って……帰れるならすぐ帰りたいけど、この辺り電波届いてないし、GPSも使いものにならない。地図があればすぐにでも帰るし流浪ってほど大げさなものじゃないと思うんだけど。現在地がわかるまでここの村長っぽい人に頼んでここに泊めさせてもらってるんだ」
「ちょ、ちょっとゆっくり話して下さい。聞き取りづらいですし、内容もほとんど理解できません!」
「え?」
楽進が話を制止させると男は、今度は肩を落とし「まだ駄目なのかぁ」とぼやいた。
今度は男にゆっくりと現状の説明をさせた。全く聞き取れない訳では無いので身振りや手振りを交えれば十分に意思疎通を図れる相手であった。
「貴方の言うぜいぴーえすというのがどういうものかは全くわからないし、山東省という地名にも心当たりは無いですね。楽進あなたは覚えがある?」
「わたしも覚えがありません。南の方でしょうか……」
「そんな馬鹿な。地図があるでしょ? 地図があればすぐに――」
「地図はそうそう手に入るものではないですよ。あったとしても絵地図程度でしょうから、あまり役には立たないでしょう」
李典の言葉に、男は信じられないことを聞いたかのように目を見開いた。
「精巧な地図を作るのには人手と時間が必要なのですから、当たり前でしょう?」
「何言って……流石にそこまで田舎じゃないだろ。中国広しって言っても山東省はそれなりに発展してる所だし。高速道路走っててなんでそんな田舎に来ちゃったんだ。会った人誰も話が通じないじゃないか……」
また話の内容がわからなくなってきた。今度は早口という訳ではない。男の口からでる単語の意味がさっぱりわからないということである。これが邑長の言っていたことのようだ。
わからないことは多いなりに、情報を引きださなければならない。頭を抱えてしまった男に李典は声を掛けた。
「とりあえず、貴方の名前を教えてくれますか?」
そういうとハッとしたように此方に向き直った。
「あ、ああそうだった。俺の名前は稲飯浩。日本から派遣されて遺跡の調査をやっているんだ」
「稲飯浩殿、ですか。稲飯が姓で浩が名ですね。で日本ってなんですか?」
楽進が聞くと、いよいよ稲飯は腰砕けになり、自身が降りてきた白い箱に寄りかかってしまった。
どうしてここまで取り乱すのか理解できない二人は、ただ顔を見合わせることしかできなかった。