11話:子供くさいスモーカー


 現代において、遺跡調査員として中国の山東省の発掘調査の国外スタッフとして派遣されていた稲飯浩。

 いつものように発掘現場に向かう途中、渋滞に巻き込まれていたはずがいつの間にか後漢末期の三国志の時代へと時間跳躍をしていた。
 突如として連れてこられた見慣れぬ景色に戸惑うなか、稲飯はとある邑で李典という少女と出会い、自身が時間跳躍をしていることに気付くこととなった。
 その後、李典の取りなしによって、鉅野にある李家の屋敷に厄介になることになった。
稲井は李家の才子と謳われる、李典の部下として雇われることでとりあえずの食いぶちを確保した。李家の怒りを買うようなことがあって放逐されるようなことがない限りは安泰である。

「少しは慣れましたか?」
「早寝早起きで健康そのものだよ」

 李家が稲飯の拠点となってから三日ほど経った。
 後漢時代に飛ばされてから、一週間程度過ぎただろうか。

 今日は昼間から李典に連れられて、街の視察に訪れていた。
 視察とはいっても李家の屋敷も街の中にあるため移動時間はほとんどない。
 稲飯が早く馴染めるようにとの李典の気遣いともとれる。

 街の周りには人一人が頭まで収まる程度の堀が掘られていて、簡単な物ながら防壁を築いている。これは黄巾賊の反乱が起こったことにより民が不安を煽られたことによる打開策として、李家が民と協力して設置したものである。
 北と南に門があり、町への入り口は二ヶ所しかない。

「ここが、民が住まう区画です」

 李典が指した方には質素な服装をした老人や子供が荷物を運んだり、遊んだり、思うままに自分たちの生活を送っている。
 ふと疑問に思い若者の姿がないことを李典に尋ねると、若者たち働き手は陽の高いうちは町の外にある田畑での仕事に出ているということらしい。

「のどかで良いな。ここは」
「そうですね。それが魅力です」

 李典は微笑みを浮かべる。二人はのんびりとした足取りで街を練り歩いた。

「あら、門の前に行商が来ているわ」
「へぇ。あれが行商人か」

 街で見る服装とは違い、旅装束とでも形容しようか、特に足元はしっかりと装備が整えられていて、脛の辺りまでしっかりと固定できる履を履いている。

「商人。今日も話しを聞かせてくれるかしら?」

 李典が慣れた様子で声を掛けると、行商人はにかりと笑みを浮かべて威勢よく何か商品を買えば見返りに話すと答えた。
 服飾品や食べ物らしいものが並んでいる。現代でいうなら雑貨屋というやつだろうか。

「うぅむ。私が興味をそそられるものは無いようですね……」
「なら、俺が選んでも良いか?」

 稲飯が割り込むと、行商人はぎょっとした表情を見せた。異様な風体の男が突然口を開いたもので驚いたようである。

「出来れば目立たない服装に着替えたいんだ。俺が今持っている服は目立ちすぎる」

 今の服装は鼠色の作業着である。
 他に持っている服と言えば仕事で汗をかいた場合に着替えるために用意してあるシャツとジーンズパンツで、これまた現代的にカジュアル過ぎる。郷に入っては郷に従えというし、服装も時代に合わせるべきだろう。

 李典は稲飯を見詰め、上から下まで見た後納得したように頷いた。

「そうですね。確かに必要ですね。その珍妙な服装では無駄に目を引いてしまいますから」

 珍妙とは心外ではあるが、作業着姿では口応えが出来ないほどに悪目立ちが過ぎる。

「これなど良いのではないでしょうか」

 李典が選んでくれた服装は煌びやかの一言。良いものであることはわかる。だが、これを着て歩く自分の姿が想像出来ない意匠であった。
 さらに言えば、稲飯はこの時代の貨幣を持ち合わせていない。こんなに高価そうなものを李典のような女の子にお金を出して買ってもらうというのはなにぶん恥ずかしく思えた。

「動きやすい服装の方が良いな……今の俺は雑用係の様なものだし、庶民的なものが良いんじゃないかな」

 それならばと、商人は農民などが仕事をする際に着るような服を見繕ってくれた。高い位置に腰紐があり。裾をたくし上げることができるものだ。

「しかし……仮にも李家に仕えるのですから、それなりの恰好をして貰わなければ困ります」

 李典は不満顔である。
 どうやらさっきの服に未練があるらしい。

「だったら、初めての給金で礼服を買おうかな……買えるよね?」

 稲飯はこの時代の市場価格など、全くと言っていいほど把握していない。
 心配そうな稲飯の言葉に、指折り数えていた李典は眉をひそめて呟いた。

「切り詰めればなんとか」
「なるほど」

 爪に火を灯すような思いをしなければいけないかもしれない。購入を遅らせようかとも考えてしまう。
 稲飯はふと自分が社会人になったばかりの気持ちを思い返し少し切なくなった。
 給料が少しずつ上がっていく喜びを中途半端なところから一に戻してまた感じる羽目になるとは思いもしなかったのだ。

「どうしました? なにやら難しい顔をしていますが」

 首を傾げながら、表情を覗かれると、どきりとする。

「そんな顔してるかな。まあそろそろ腹が減ったかなぁ。そういう顔。李典さんは?」
「ええ。私もお腹が空きました。そろそろお昼にしましょうか。屋敷に戻りましょう、給仕が昼餉を作ってくれているはずです」

 庶民服を商人から受け取りながら、李典は答えた。

「わかった。――また、服買いにに来るから。その時は改めて取引させてくれ」

 行商に改めての取引の約束を取り付け、稲飯達はこの日の視察を切り上げた。

× × ×

 李典にこの時代での普段着を買ってもらった次の日の朝である。

「へぇ。いいなこれ」

 いわゆる農民服に袖を通すと、とても動きやすい。麻製なのでポリエステルなどの石油由来の肌触りに慣れているとごわごわした感じがするものの、涼しげで過ごしやすくなりそうである。着込むことで寒暖の調整をするというのはこの時代でも同じらしい。

 これでこの時代で自由に動いても目立たなくなっただろうか。
 となると好奇心がふつふつとその首をもたげてきたのを感じる。
 外を自由に歩いてみたい。
 思い至ってしまえば行動である。

 PCバッグのポケットから手帳とシャープペンシルを取り出した。カメラも一応あるにはあるが一眼レフカメラでは大きく目立ちすぎるだろうということで、残念だが持ち出すのは今回は見送ることにする。

 これから始めるのは、有意義になることが約束されていると言い切れるフィールドワークというものである。気分が高揚するというものだ。

 さすがに無断で外出してしまうのはいかがなものかと思い、稲井が李典の部屋へと向かった。
浮かれる気持ちは言葉尻から滲んでいることだろう。李典の部屋の前に立ち、ノックをした上で声をかけた。

「もしもし。李典さん」

 一拍の沈黙ののちに「稲井殿ですか、どうぞ入ってください」と返事が返ってきた。

 扉を開くと、李典は仕事中のようだった。
 机の上に積まれた竹簡の山を目の前に、筆を走らせている。

「どうかしましたか?」
「その。外出の許可がほしいんだけど」

 稲井がそう言うと、李典は筆を止めた。美麗な所作で硯に筆を置くと、李典はきょとんとした表情で稲井を見た。

「昨日も見回りには出たじゃないですか」
「いやぁ。ほら、この服で町を歩いてみたくてなー」

 袖を掴んで昨日との差異を主張すると、李典は面白いものを見た、とばかりに笑顔を見せた。

「意外と子供っぽいのですね。私よりも歳は上のように見えますのに」
「うっ――」

 李典は目を細め、微笑ましいものでも見るような視線を稲井に送っている。
 年少者にからかわれるという初めての経験をした稲井の表情は赤い。

「でも一人での外出は許可できません」

 きっぱりと李典は言った。

「な、なぜ?」
「自分の身を守れますか? 稲井殿はまだこの時代のことを何も知らないのでしょう」
「……確かにな。そう言われたら反論できない」

 穎川で目の当たりにした、血で血を洗うような命のやり取りがフラッシュバックして、膝が笑いだした。
 動揺を隠している稲井の様子に気づくことなく、李典は続けた。

「まあ、私もこの通り、鍛錬を欠かさない伯父さまや整兄さまのように武を誇っていません。しかし稲井殿よりはこの時代の渡世術を弁えています」

 加えて護身はできる程度に鍛錬も行っていると言う。反論の余地はない。李典は稲井の身を案じて諭してくれているのだ。

「――仕方ない。諦めるよ」

 稲井が言うと、李典は薄くほほ笑んだ。

「この仕事が一段落したら、稲井殿に任せることになる仕事についてお話したいと思います」

 突然話が変わり、稲井は「へ?」と間の抜けた返事をしてしまった。
 李典は話を続ける。

「今後稲井殿に任せることになる仕事の内容含め、街に出て話したいと考えていましたので、お付き合い願います」
「あ、ああ」

 外に出たいと駄々を捏ねた結果、妥協案として李典随伴での外出許可が出た、そのような状況になっていることに気づいた稲井は呆けつつも赤面した。

『落ち着きのないガキか俺は……』

 いまだに気を抜くと日本語が口から出てしまう。
 李典は興味深げにこちらを見ている。

「またのその言葉ですか。何と言ったのですか?」
「え、あいやそのだなぁ」

 稲井は頬を掻きながら視線を逸らした。
 頬が熱いな。

「ん。少ししたらまた部屋に来るよ」

 ごほんと咳を一つ。誤魔化して稲井は李典の部屋を後にした。

「――あ」

 李典が二の句を継ぐ前に、するりと部屋を抜け出た。
 気まずい思いを抱きながらも、稲井は李典の仕事が一段落するのを待つことになった。
 ばたむと扉を閉じ、ふうと息を吐いた。
 思えば、若い女の子と会話したのはいったいどれくらいぶりだろう。

 大学を卒業してから若人との交流は極端に減ったのは事実である。学芸員としての奔走の日々。そして転職。中国への派遣。言語の壁。色恋にかまけている時間などここ数年全くなかった。免疫がすっかり弱ってしまっているようだ。

 だが、心中で稲井は頷く。
 下心だのというのは現状湧いてはいない。しかし話そうとすれば言葉に詰まる。

『……思春期かよ』

 意識過剰とも言える。
 いくら大人びているとはいえ、ともすれば十も離れていそうな女子に対して湧かせる感情ではないだろう。
 端正な顔立ちに、時折見せる年相応の笑顔。しなやかな指が筆を走らせていくその所作。艶のある黒髪がさらさらと流れるその姿はとても――。

「いやいやいや!」

 自分で思っている以上に重症か。
 かぶりを振って意識を戻す。

 稲井は、図らずも他欲に目もくれずに仕事に従事していたころの、自身の生真面目さを理解した。

 こういうときは気分転換だ。

 懐に忍ばせている箱の感触を確かめると、稲井は屋敷の庭にある木陰まで行き、腰かけた。

 カチッ

 紫煙を燻らせていると、気分が落ち着いてくれる。

 カシュリカシャリ

 煙草を吸うようになってしばらくして奮発して買った銀のジッポライターの蓋を、手慰みに開閉を繰り返す。ヒンジが弛み簡単に開閉してしまうようになっているライターはさながら楽器のように金属のぶつかる心地の良い金属音を聞かせてくれる。

 稲井はよくこのように気分転換を行う。

 稲井はこのまま三本ほど煙草に火を付けることになった。