1話:蒼く燃ゆる瞳

『蒼天己死。黄天当立。歳在甲子。天下大吉。』

 蒼天は既に死に、今まさに黄天の世が訪れるときである。そんな声が野に響きだしたのはいつ頃からであったか。
 宮中が腐敗し、人心は乱れ、世に不安の影が差している今、新たな世が訪れ天下に平安がもたらされるというこの言葉に、すがってしまう人間がいることは仕方のないことであろう。
 だが、人民の淡い期待に反して世は動乱し、長きに渡る戦乱の時代が幕を開けるのだ。

 千の騎兵を連れだって砂塵を巻き挙げる集団がいた。部隊を引き連れているのは三人のうら若い将であった。装備は十分とは言い難いものの、その面構えは勇壮で意気軒高である。

「孟徳。何を笑っているんだ」
「ふふ、先程の言葉を思い出すとどうしても顔がにやついて仕方がないのよ」

 愉快そうに声を上げ笑うと、馬の腹を蹴り団体を引き離してしまった。

「おうい。まったく大将があんなに気楽にやってて大丈夫なのかね」

 取り残された一人が不平を漏らした。

 大地に馬蹄を打ち付け、風を切って走っているのは曹操豫州沛国出身の娘である。
 彼女は大宦官曹謄の孫に当たる。孫とは言うが直接的な血の繋がりは無く、曹謄の養子である曹嵩が実父である。

 取り残された二人は夏侯氏の若者、夏侯惇夏侯淵の姉妹である。
 曹嵩が養子に入る前の姓は夏侯であり、曹操を含めた三人は従姉妹であり同郷の徒である。そのため幼少のみぎりから行動を共にすることが多かった。

「走れ走れ! ハハハ!」

 若き曹操は幼名を阿瞞といい、手のつけられないお転婆であった。その時からすでにその才覚を発揮し、大人たち幾度となく騙したり、野良犬を追い回してみたりと、放蕩三昧で素行が悪かった。
 ある時、人材発掘の天才と呼び声の高い、洛陽大尉の橋玄は「天下は今まさに乱れようとしているが、並々な才能を持った人間では天下は救えぬ。だが、君ならあるいは」といまだ無名であった曹操を評価し、曹操はこれに心服し彼を師事した。

 天下の為に行動を開始しようとした曹操であったが、名声が無いことを橋玄に指摘され、許子将という、これまた人物鑑定の名士に、自身の評価を願うことにしたのだ。

今現在その遠足の帰りなのである。馬の鼻先は彼女らの故郷である沛国へと向かっていた。

「しかし、大将はなんであんなに喜んでるんだ。どう考えても喜ぶような評価じゃ無かっただろうに」
夏侯淵は隣で馬を走らせる従姉へと尋ねた。

 その疑問ももっともなことで、許子将は自身のことを評価せよと詰め寄った曹操に対して「お前は治世の能臣、そして乱世の姦雄である」と評したのだ。

「正直、あの許子将とかいうやつが言ってたことの意味、あんまり解ってないんだけどなぁ」

 夏侯淵は頭を掻いた。

 足らぬ従妹に溜息を漏らすと、彼方を行く曹操の背を見つめながら、夏侯惇は答えた。

「孟徳が必要としていたのは名声だ。許子将に評価される、ということ自体が名声を得ることに繋がるのだ。橋玄様はそのことを踏まえ、助言を下さったのだろう」

 言うが早いか、夏侯惇は馬の腹を蹴り、主に倣って馬の速度を大いに上げた。

「いや、わからんが。お、おい待ってくれよぉ!」

 後ろを着いて来る兵を置いて行くわけにもいかず、彼女は行軍速度をそのままに、後方から弱々しい声を上げるしかなかった。

 夏侯惇が後ろから迫るのを確認した曹操は、馬の速度を落とし夏侯惇と並走した。
 夏侯惇は、美人ではあるが笑顔の乏しい表情で主に話しかけた。

「孟徳。国に戻ったら、まずはどうするつもりなのだ」
「ふふ、言うまでも無いでしょう?」

 曹操は秀麗な表情そのままに、ただ口角を上げただけで要領を得ない。仕方なく、夏侯惇は自分の予想を口にする。

「更なる名声を得るために、賊を打ち果たすか」

 夏侯惇の推測を聞き入れた曹操はまた愉快そうに笑った。

「む」

 右方から三つの砂塵が見えた。荒野を一直線に駆け、曹操の元へと向かってくる。
 曹操夏侯惇は馬を立ち止まらせ、砂塵を確認した。

 砂塵の主は馬に乗った兵士であった。
 曹操はその装備に見覚えがあった。

「火急の用事の為馬上から失礼する。そなたが曹将軍であらせられるか!」

 兵士の一人が、馬上から曹操へと声を張った。

「いかにも! 私が曹孟徳である」

 曹操が昂然と居直り答えると、兵士三人は顔を見合わせ、そして向き直り、続けた。

「我ら、朱儁将軍の命により曹将軍へと援軍の要請の為参った次第であります。穎川で行われし黄巾賊討伐において劣勢を極める我らに助力を請う、とのこと」

 なるほど確かにこの鎧は大将軍の何進が抱えている軍の装備に違いない。兵士は三人共に良く肩が張っていて、よく訓練されていることが分かる。

 朱儁と言えば、右中郎将であり天子直属の軍を指揮する立場にある。かなりの地位にある人物だ。
 曹操はすでに宮中から騎都尉に任命されており、洛陽の守護を任されている立場である。同じく洛陽を守る立場にある中郎将の朱儁が、まず曹操に助力を請うことは当然のことであった。

「賊の規模は」曹操が尋ねた。

「三万でござる」
「さ、三万だと!」

 兵士が答えると、夏侯惇が目を見開いて驚いた。

 黄巾賊は太平道と呼ばれる宗教集団に属した農民の集まりと聞いている。三万という規模はあまりに現実味がない。

「我が軍は四万の十分な兵でもって当たったのですが、各地の連戦で疲弊した我が軍に、賊の勢いは激しくなり……。現在は皇甫嵩将軍と共に、長社にて籠城をして凌いでおります」

 兵士はあくまで礼を失することなく話を続けようとしていたが、内心焦っていることが透けて見えた。

「どうやら敵も馬鹿ではなかったようだな。一斉蜂起を始めたと見える」曹操が呟いた。

「その通りにございます。糧食乏しく、このままでは数日と持たないと思われます」

 兵士から説明を受ける曹操は、終始神妙な面持ちで、事の重大さを受け止めているように見受けられた。
 たかが農民に、天子からの勅令により動いている官軍が打ち破られたとなっては、それこそ一揆を盛り上げることになってしまうからだ。

「聞いたな。元譲」

 振り返った曹操の表情にはすでに深刻さは無く、天の利が到来したことを喜ぶものへと変貌を遂げていた。どうやら猫を被っていたようだ。いつものことだが。
 夏侯惇が頷くと、曹操は再び神妙な表情を作り、兵士に向き直って言った。

朱儁皇甫嵩両将軍に伝えよ。我らはこのまま長社へと援軍に向かうと」
「はっ」

 兵士は安心した様子で、安堵の笑みを浮かべた。そして一転して、元来た方角へと駆けて行った。

「ああは言ったが、我らの戦力はたかだか千の騎兵。援軍としては心許ないのではないか?」

 小さく遠のいて行く砂塵を見送りながら、夏侯惇は呆れていた。敵は三万、いくら我が千人の騎兵たちが精強であったとしても、多勢に無勢。散々に打ち破られるのが関の山である。
 だが曹操はなんとはなしに言ってのけた。

「戦い方によるわよ。すでに手は打ってあるわ。洛陽を発つ前に、志有る人物に文謙を使いにやってあるし」
「……そうか。ならば追ってそちらに伝令を出さねばな。誰かある!」

 夏侯惇は後方へと命令を出した。

 数人の伝令を放った後、沛国への行軍を取りやめ、曹操軍は一路穎川へと馬を走らせた。
 ついに私の覇道への第一歩を踏み出す時が来た。曹操は遠く広がる荒野を見つめながら、野心の炎を燃やしていた。