10話:壺の径は100cm強であった
李家の屋敷は町の中心地に位置していた。
駆動させると悪目立ちするであろうバンは、町に暮らす人々を驚かさないよう馬に引かせた。
一見すると鉄製の白い箱が車輪に乗せられているように見える訳であり、町民の奇異の目を一手に集めていた。
この車は時代遅れのディーゼルエンジンを積んでいるため環境には厳しすぎるし、それほど値の張る車では無かった為に複雑な心境であった。
到着後、李家の屋敷の一室を割り当ててもらい、日常的に使うかもしれない荷物はバンから持ち出して部屋に置いた。
割り当てられた部屋は、未来から来た稲飯にとっては身に余るほどに大きく、恐縮してしまう程であった。天蓋付きのベッドに、上で成人男性が寝転がれるほどの大きさの執務机、収納用の箪笥も置いてあり、至れり尽くせりであった。
「さて、と」
部屋にある執務机の上にノート型PCを置いて、起動する。パスワードを入力すると、すぐにデスクトップ画面に移行した。
デスクトップには仕事の報告書や調査計画などの雑多なファイルが並べられている。
すでに分かり切っていることではあるが、この場所に電波は届いておらず、インターネットには繋がらない。
だが自分が未来から来たという確証たりえるこの機械がここにあるだけでも、稲飯の心は安らいだ。
稲飯はキーボードを叩き始めた。
稲飯はいわゆるメモ魔と呼ばれるような性格であり、発音メモなどにもその性格が良く現れている。
「よし」
気の済んだ稲飯はPCの電源を落とし、コンセントを探してはたと気付いた。
「そうだった。えっとどこだ?」
コンセントなんて無いこの時代である。そもそも電気も供給されてはいないが、心配であった充電が切れるという事態は、ソーラー充電が可能な外部バッテリーを持ち歩いていたことで払拭されている。
中国大陸の至る所で発掘の仕事を承る可能性があったので、日本を発つ前に色々と準備をしていたのが幸いした。
「ふう。田舎仕事が長くて助かった」
今のようにまともに電気の通っていない地域での仕事もあったため、助けられたこと限りない。
「これでよし、と」
稲飯はPCと鞄から取り出した外部バッテリーを接続し、充電を開始した。
この部屋は陽の光が十分に入る。この机の上に置いておいても、夜までには充電が完了することだろう。
稲飯は椅子に深くもたれた。
「……」
することが無くなった。
手持無沙汰になった稲飯はそわそわと部屋の備品に手を触れる。
どれもこれも、部屋にあるすべての物が千八百年後の未来では歴史的価値有りとして博物館に収蔵されるだろう。
「稲飯殿」
「……おっ!」
突如開かれた部屋の扉と、我が上司の声で変な声を上げてしまった。
上司は一枚布からなる着物を纏っており、外に出ていた時の服装に比べゆとりのある服装であることと、結い上げていた髪の毛も下ろしたことで艶やかに見える。
だが今の稲飯にはその感想を述べるほどの余裕はない。
「……」
「……」
李典と稲飯の目線が交差した。
部屋の隅に置いてあった、腰まで届くほどの高さの壺を抱きしめている稲飯を見た李典は、見る間に表情を曇らせた。
「稲飯殿……」
かろうじてもう一度名前を呼んだ李典だったが、稲飯にはその声色は若干の侮蔑を含んでいるように聞こえた。
稲飯は慌てて壺から離れて弁解を試みる。
「今のは、この壺の大きさを測ってたんだ。コンベ……測量器具は車に積んだままだったからさ」
「まあ、人の嗜好に口は出しませんが」
李典は半歩ほど後ろへ下がり、稲飯から距離を取った。
稲飯からすれば知的欲求を晴らそうと行動していただけであるのに、あまりに無体な扱いである。
「わかってくれてないね」
「……冗談です」
薄く笑みを浮かべた李典は、安堵している稲飯の手が届く程度の距離まで近づいてきて、稲飯と同じように壺を眺め始めた。
「この壺が珍しいのですか? 私の部屋にも同じ職人衆の作った壺が飾ってありますが」
李典は部屋に当たり前のように置いてあった調度品に対して、初めて興味を持ったようである。
まじまじと壺を見てはいるが、首を傾げている辺り、なにが面白いのか分かっていない様子だ。
こういう手合いは博物館でよく見かけた。
稲飯は素人にもわかりやすいように努めて説明を試みた。
「これはね、磁器製の壺なんだけど。磁器って言うのは、簡単に言うと粘土で作った陶器にガラス……玻璃を薄く張って水が染みない様に加工したものを言うんだ」
玻璃という言い方のほかに瑠璃という言葉でも伝わっているようだが、瑠璃というと、現代では宝石のラピスラズリを指してしまう。
受講者の誤解を避けることは元教育者のはしくれとして、気をつけなければいけない。
このような心得は学芸員時代に学んだことである。稲飯は昔取った杵柄といえば聞こえが良いが、わずか二年あまりで退職した身であるため誇れそうもない心境だが。
なにはともあれ、李典は壺に興味津津である。何を思ったか、数分前までの稲飯と同じように壺に抱きついた。
「……?」
予想通り、なにも分からなかった様で、李典はすぐに立ち上がり、着物の裾を払った。
「どうやら私には理解できません」
李典は壺を見ているが、関心のない人間にとって、この壺はどこまでいっても壺なのである。
「はは、書物を読む学問も面白いだろうけど、こういう技術方面の勉強も興味深いと思うよ」
「確かにそうですね。ですが李家の者は槍や剣を振るうことばかり、私にとっての学問は座学のほかにありませんでした」
李典は淋しそうに呟いた。そして稲飯の顔を見上げて口を開く。
「ですので、稲飯さんには色々と教えていただきたいです」
「もちろん、俺に教えられることなら」
「あ、そうでした」
ふと、李典が何かを思い出したのか手を叩いた。
「申し訳ないのですが、さっそく手を貸していただきたいのですが……」
「そんなに畏まらなくても。それに俺は君の部下なんだから」
よく考えれば自分の上司に対してこの態度はよろしくない。現代でも免職されてもおかしくない無礼だ。ましてやこの時代では実際に首が飛びかねない。
良いのだろうか。李典はあまり気にしていないようだが……。
そんな稲飯の考えを余所に李典は話を続けている。
「それでは、ついてきて下さい。頼みごとがあります」
稲飯は李典に連れられ、自室を出て移動した。連れてこられたのは李典の部屋らしい。
「これは……いったい」
稲飯は言葉を失った。
「…………」
李典はばつが悪そうに部屋の中から目を逸らしている。
「室内をそのままにするようにと言いつけたばかりに……思えば私一人には手の打ちようがありませんでした」
李典の部屋は恐ろしいほどに散らかっていた。大学教授の研究室のデスクもここまでは散らかっていなかったはずだ。
稲飯が割り当てられた部屋と、家具類は同じだった。しかし書簡竹簡が執務机に山積みである。置き場に困ったのか箪笥の上、果ては寝具の上にまで溢れ返っていた。
「どこで寝ていたんだ」
「椅子の上には何も置いていませんよ」
「腰が痛くなるよ……」
稲飯の上司は頭が良く冷静で美人な女の子であった。
しかしずぼらで片付けができなかった。
片づけはスムーズに終了した。手に取るものすべてが歴史的に見て目玉が飛び出るような貴重品だ。稲飯は手汗が収まらず、幾度も掌を拭うはめになったが、なにはともあれ無事に綺麗な部屋に片付いた。
「ありがとうございます。助かりました」
こう感謝してもらえると、協力のしがいがあるというものである。
これを機に、書庫の資料はいくらでも読んで構わないというお墨付きももらえたし、この時代の詳しいことを考察することも容易にできるようになった。
「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」
李典にそう告げ、稲飯は自室へと戻った。
今日はどっぷりと疲れた。
無言のまま寝具に腰かけ、そのまま倒れてみる。現代でよく聞くようなスプリングの軋む音は聞こえなかった。
なぜ自分がこのような時代に来てしまったのかは定かではないが、この李家において生活していかなければならない。いずれ元の時代に帰る為にも、今日は英気を養うこととしよう。
少し早い時間のようだが、それがいい。