7話:機を見るに敏なり

半刻後陽が沈むと、皇甫嵩は城門の上部にある矢倉の上から穎川の地を見ていた。本来ならここには数人の兵士が物見として配置されているのだが、皇甫嵩はこれに休むように言い渡し、一人で番をしているのである。

「……はぁ」

 空気はかなり冷え込んでいる。憂いを帯びた溜息が、少しだけ白くなって敵軍の陣営の方へと漂い消えた。
 少しすると、先程細作に出した二人の兵士が城へと帰って来た。兵士は気を落としている様子の皇甫嵩に気を使い、少々声を小さくし報告を始めた。

「曹将軍が北方より援軍に参られます」

 皇甫嵩は驚き聞き返した。

「なに。沛国から辿り着くには昼夜駆けても三日は掛かるはずだろう」
「それが。洛陽の周辺で遠征中の曹将軍の軍に遭遇しまして。おそらく今晩中にも到着するかと」
「こ、今晩だと」

 なんと機敏な。なんたる僥倖。

 ――ダダッダダダッ。

 面喰っていると、遠くから馬の蹄の打ち付けられる音が聞こえてきた。耳をそばだてると、確かに此方へと近づいてきているように思える。

「皇甫将軍はおられるか!」

 何やら声を上げながら、暗闇の中から走ってくる影が見えた。細作は瞬時に弓に矢をつがえ、狙いを定める。

「お、女?」

 細作が呟いた。

 城門前に何本か立ててある松明の灯により、その姿が露わになった。髪の長い、女のようである。

「何者か!」

 探りを入れるように、皇甫嵩は武者らしき格好の女へと声を掛けた。女は馬を棹立たせ止まらせると、矢倉へ向かって告げる。

「将軍に伝えよ。我々はすでに貴殿の動きに合わせる準備は整っている、とな」

 女武者は言葉だけ告げると、用は済んだとばかりに馬を反転させ、再び暗闇の中へと消えて行った。女武者の姿が見えなくなると、再び静寂が辺りを包んだ。

「あ、あの者は……」
「曹将軍だな。来てくれたか……っ」

 勝てるかもしれない。皇甫嵩は、この数日の間にすっかり忘れていた笑顔を見せた。

「よし。すぐさま動ける者を纏めよ」
「朱将軍にお伝えしますか?」
「まて……いや、私だけで動く」

 ここでもし出撃の旨を伝えたとしても、反対されるであろう。さらに怖いのは、朱儁皇甫嵩のかわりに突撃を掛けると言い出すことだ。そうなれば、朱儁は死兵となって道を切り拓こうとするだろう。
 これ以上朱儁に不甲斐ない所は見せることが出来ないと、皇甫嵩は覚悟を決めた。

「頼む。私に着いて来てくれ」

長社城陣営はすぐさま反撃の為の準備を始めた。

× × ×

 森の木々に紛れ、曹操達は息を潜めている。長社城を挟んだ前方に、黄巾賊の陣営が見えている。
 不敵に笑みを浮かべながら、戦場を見つめていた曹操の背後に、親友が帰還した。
 夏侯惇曹操に並ぶようにして戦場を見つめる。

「ちゃんと伝えてくれたかしら?」
「まあ。伝わっているだろう」

 単身、伝令として長社城へと向かっていた夏侯惇は憮然として答えた。
 相変わらず無愛想だと、曹操は笑った。

「そう。だったらしばらくすれば動きがあるはずね。李乾の到着はどれほどになるのかしら」
「夜明けまでには辿り着くはずだ……しかし孟徳よ。このような急ごしらえの策で本当に黄巾賊を打ち破れるのか」

 李乾が合流した所で、曹操の軍は六千。対して黄巾賊はまだ二万ほどの勢力を保っているし、時間と共に合流して大きくなっている。奇策を用いて作戦を行うとしても、この人数では少々心許ない。

皇甫嵩の策によるわね。恐らく火計になるでしょう」
「火計か。荒れるな」

 戦闘の予感に、夏侯惇が腰に佩く太刀を握ると、鍔が鳴った。普段からきつい目付きがさらに鋭くなる。

「でしょうね。だからこそ、統率のとれた此方に有利」

 曹操は言った。

 賊の団結などというものは、いざとなれば脆いものだ。
 長社城からも突撃を掛けるとなれば、賊の前後を叩くことが出来る。この方法ならさらに賊を浮足立たせることが出来るだろう。

 夏侯惇は振り返り、待機している兵達に号令を掛ける。

「長社城の動きに合わせ、我々も突撃を掛ける。総員、準備を怠るな」

 兵達は無言で頷いた。

× × ×

波才将軍。お伝えします。長社城内部にはほとんど戦える兵力は残っていないと思われます。兵力は我々の半分にも満たないかと」

 長社城の様子を窺わせていた兵士の一人が、報告を済ませた。兵士の報告を聞いた波才は、つまらなそうな顔をしていた。

「一万を下回るか……つまらんな」

 宮中の精鋭ともあろう中郎将が不甲斐ないことだ。思っていたよりも開いていた兵力差に、波才は吐き捨てるようにして鼻で笑った。

「一刻の後、総攻撃を仕掛けるぞ。やつらに思い知らせてやる」

 礼を済ませると、兵士は天幕の外へと出て行った。

 黄巾党の蜂起はこの豫州のほかに、幽州と荊州でも起こっているはずである。幽州蜂起は程遠志とかいう男が率いて起こしたと情報がある。幽州へ派遣された官軍は誰が率いていたであろうか。誰が率いていたとしても、程遠志軍は波才軍よりも巨大な勢力だ。まず打ち破られることはないだろう。そして荊州では張曼成が蜂起する手筈になっている。

 大陸を分断するかのように巨大な一揆が起こることにより、漢王朝は転覆すること必至である。
 報告では、どの軍もまだ官軍との戦闘には決着は付いていないという話である。
 自身の腕を知らしめ、大陸で初めに鬨の声を上げてやろうと、波才は武具の準備を始めた。

 その時、転がる様にして天幕の中に部下が走りこんできた。

「何事か!」

 波才は声を荒げるが、居住まいを正すこともできず、部下は汗まみれの顔で告げた。

「襲撃です。皇甫嵩が正面切って突撃を仕掛けてきました」
「何だと!」

× × ×

 静寂を打ち破る地鳴りが長社を響き渡る。

「進めぇ! 天意は我らにあり。今こそ逆賊を打ち滅ぼすのだ! 天に仇為す逆賊を焼き尽くせぇ!」

 舞う炎の灯りに反射する、手入れの行き届いた刃が闇夜に煌めいている。

 皇甫嵩はまだ動ける兵士を掻き集め、三千の兵に突撃命令を出したのだ。兵士たちは雄叫びを上げ、暗がりに浮かぶ敵陣へと向かっていく。伍長が松明を持ち、班を先導していく。皇甫嵩の計略により、長社に火が放たれ、穎川からの風に乗り一気に辺りに広がった。

「か、か官軍だぁー」

 火の波が丘を登ってくる様子を目の当たりにした黄巾賊は泡を食って慌てた。

「官軍が突っ込んできやがった!」

 まともな軍律もない黄巾賊の指揮系統では急な反撃にまともな指示を出せないばかりか、勝手に酒盛りを始めて酩酊状態の者までいた。官軍の兵士たちは黄巾を目印に、目に入った賊を片っ端から切り捨てて行く。

 見る間に黄巾の陣営は火の海に包まれた。
 黄巾賊の血の匂いが、火焔の熱風に煽られ吹き荒れる。

「賊共に殺された仲間の恨みを晴らせ!」

 皇甫嵩は陣営に突撃し、一直線に波才目掛けて突っ込んでいく。

 こうして穎川は再び戦火に包まれることになった。だがその形勢は逆転し、今度は官軍が主導権を握ることとなった。
 至る所で剣が肉を割く音が聞こえ、それに合わせて叫び声が響く。ろくな反撃もできず、逆賊は討ち取られていく。

「うわぁっっ」
「殺さないでくれぇ」

 皇甫嵩は命乞いなどに聞く耳を持たないとばかりに、泣きわめく黄巾を被った頭を地面に転がしていく。
 逃げ惑う黄巾賊によって蹴倒された松明が天幕に引火し、さらに火の手が広がっていく。

「押せ押せぇ! 退くことはまかりならんぞ!」

 皇甫嵩が檄を飛ばし、それに応えるように彼女の部下たちは勇猛を奮い敵陣に雪崩れ込んで行く。

「し死んでたまるか、俺ぁ逃げるぞ!」

 ついに一部の黄巾賊が撤退を始めた。仲間の危機などお構いなしである。そもそも仲間と思っていたかも知れたものではないが。遂に波才軍は瓦解し、後退を始めた。

「あら。一体どこに逃げようなどと思っているのかしらね」

「――な」

 首元に刃を当てられたような怖気に、賊は竦み立ち止まる。
 賊が官軍から逃げようと後ろを向くと、そこには先程までは影も無かった騎兵が陣を組んで突撃の構えをしているのだ。あるものは腰を抜かし、あるものは前後不覚に陥った。

 そんな様子を、曹操は静かに見つめていた。曹操は背後に見える月に照らされながら前方に手を挙げ、静かに告げた。

「――突撃」

 すっとその手が下ろされる。

『オオォォッ!』

 騎兵隊は穎川に広がる火焔の灯りを頼りに、突撃をする。

 腰を抜かしていた黄巾賊は戦馬によって蹴倒され、踏みつけられ肉の塊になっていく。そうして攪乱され、陣の外側へと広がって行った賊は、陣を囲うように待ち構えていた李乾軍によって殲滅される。

 戦況は完全に官軍側の優勢となった。

「そ、曹旗だと。騎都尉の曹操か……っ。なんでそんな奴が出張って来たんだ」

 混乱に乗じていち早く激戦区を抜け出していた波才は歯を軋ませていた。
 曹操と言えば、放蕩三昧で手のつけられない宦官の孫娘だったはず。そんな女がなぜこのような場所に沸いて現れた?

「畜生!」

 気にもしていなかった馬鹿女にしてやられたということか。

 波才は行き場のない怒りを罵倒として吐き出し続けた。だが立ち止まっていては自分の首を狙う輩が集まってくるだろう。波才はわずかな手勢を連れ、走り続けた。

× × ×

波才はどこだ!」

 一際大きな天幕の中を確認した皇甫嵩は、もぬけの殻になっていた中を見て気付いた。

「逃げたか!」
皇甫嵩将軍! あちらの方へ手勢を連れ逃げ去ったものがいると!」

 ちょうどよく部下が来てくれた。報告を聞くと、返事もせずに天幕を飛び出した。
 皇甫嵩は天幕を飛び出た。天幕の前には煤けた鎧の武者が立っていた。

 朱儁である。

「無茶をするなと言っただろう!」
「――っ」

 鋭い剣幕に皇甫嵩は息を飲んだ。
 朱儁皇甫嵩の勝手な行動を叱咤しているのである。再び叱責が飛んでくるかと、皇甫嵩は身構えたが、予想に反して朱儁は睨みつけていたその瞳を細めた。

「……まったく。あとは私に任せなさい。お前は波才を追うのだ」

 朱儁皇甫嵩の馬を連れていた。朱儁が馬の背を叩くと、馬は任せろとばかりに嘶いた。

「……わかりましたっ!」

 皇甫嵩は馬に跨ると、部下の報告のあった方向へと走って行った。

「さて――最早決着はついた! 戦意の無くなった者に刃を向けることは許さぬぞ!」

 朱儁が声を張り上げた。

 残る黄巾賊はすでに抗う程の士気は無い。
 陽が昇る頃に、この長社・穎川の地に官軍勢力による鬨の声が上がった。

× × ×

 朝を迎えた戦場からはまだ煙が上がっている。兵士たちは朱儁曹操の命令で火に土を掛けて鎮火させて回っている。

「報告します。皇甫嵩将軍が見事に波才の首を挙げました」
「そうか」

 朱儁は頷いた。そして、隣で報告を聞いていた騎都尉将軍の方へ向き直る。

皇甫嵩と通じていたようだな」
「ええ。どこかの右中郎よりも行動力が有りそうだったのでね」
「……ふん。成功したから良いものの。危うく人材を失う所であったぞ」
「機を見て敏に動いたからこそ、被害は少なく済んだ。と見るべきでしょう」

 朱儁曹操の言葉に応えて反論することはせず、眉間に皺を寄せた。確かに結果だけを見るのならば、風が吹いた時点で突撃を掛けたからこそ波才軍を打ち破ることができたとも見られよう。
 とは言え、結果として黄巾賊を討伐できたことには変わりないので、朱儁はこれ以上の非難はしなかった。彼は皇甫嵩にも叱責を与えることは無いだろう。

「まあ、教え子の成長が見られるのは嬉しいものであるがな」

 朱儁は苦笑した。

朱儁将軍は都へと戻られるのかしら?」
「ああ。すぐに戻る。恐らく、戻ったとしても、すぐに出撃命令があるだろう」

 この地の一揆は鎮圧に成功したが、未だに首謀者である張角の首を挙げていないのが現状である。各地の黄巾勢力は肥大を続けている。
 戦が続けば兵の士気は下がり、脱走する兵も出てくるだろう。都に巣くう者どもは、その辺りのことも考えることもせずに無理な命令を続けるのだ。

「それならば、ここの後始末は私に任せてもらって構わないわ」

 曹操は戦の処理を自身が請け負うと提案した。すこし驚いた様子の朱儁であったが、曹操の考えが理解出来たようで、頷いた。

「……ならば。兵を纏めろ! 洛陽へと帰還する」

 朱儁は兵たちを纏め、帰る支度を始めた。

 後始末を曹操が請け負ったのは、この援軍がそうであったように、名を売るためである。
 騎都尉将軍という、軍を持つ立場にありながら曹操はほとんど戦場へは出ていない。大宦官を祖父に持つ曹操は、権力者に煙たがられているのである。
 大義名分を得て戦地に赴く機会は少ないが、こうして戦の後始末を肩代わりしてやったことで、官軍の兵士たちは曹操に良い印象を持つことだろう。兵士たちは大抵農民である、今はこういった些細なことで民の評判を上げることが重要であることを曹操は理解しているのである。

「さあ。私たちは戦の始末をつけるぞ!」

 曹操は兵士たちに発破をかけた。