18話:天変
広宗において、黄巾党討伐は成った。
首謀者の名は張角。兄弟である張梁、張宝とともに、乱れた世の中に苦しむ民の救済を目的に活動をしていた。
張角は自らを天公将軍と称し、弟二人を地公将軍、人公将軍とし、漢王朝を表す『蒼天』にとってかわり、『黄天』へと、天下を変えることを掲げた。この乱は、張角についていくと決めた民たちが起こした蜂起であった。
皇甫嵩が広宗にて張角の率いる黄巾党の本隊を打ち破ったときすでに張角は死んでいた。
張角の体は病に侵されていたのである。
世の中の平穏を真に願い、自分の体を顧みずに活動を続けた結果である。
打ち破られた黄巾党の残党は各地に逃亡した。今後も黄天の世を想い、蒼天に戦いを挑むだろう。
そして、宮中に巣食う宦官たちから見れば、私腹を肥やすための奸謀を巡らせる余裕が再び生まれる時期が到来したと言える。
時の天子は政に興味を持たない。
天子は天命を受けて政を行う立場にあり、理想の治世を行う絶対者である。
しかし、一人でその任に耐えうるものではなく、天子の手足となって働く補佐役が必要であった。その役を担う者が、国教である儒教に忠実な官僚である。『清流』と呼ばれる天下有為の若者たちが天下を支える官僚となるために学に励んだ。
しかし、世襲制である天子の統べる世の中となっては、時間とともに他の力が働きやすい。
長く続く時代の中、英君ばかりが帝位に就くとは限らない。
時には暗愚が帝位に就くこともあろうし、また天子が若くして死んでしまえば、政治のいろはもわからない幼い皇太子が後継ぎとなる事態も珍しいことではない。
治世に影響を及ぼす要因の一つとして、幼き天子の母たる『皇太后』があげられる。つまりは先君の未亡人である。皇太后にも発言権はあり、その発言の裏には彼女の親兄弟の思惑も透して見えるものであった。皇太后を通して『外戚』の思い通りに天子の威光は利用されていった。
また、前帝の周囲には他の女性たちの姿もある。側室たちである。宮廷には天子や正室、側室たちが暮らす区画があり、内廷と言った。
そして、もう一つの要因がある。
天子の執務上の連絡係や、内廷に住まう女性たちの管理役である『宦官』だ。
罰として宮刑、つまり去勢されたもの、または宮中に仕えるために、自発的に去勢手術を受けたもの、いずれにせよ男性としての機能を失ったものが宦官となった。
内廷に住まう女性たちを襲う心配がないように、そういった人間を管理役として当てた。
外戚である皇太后にとっても宦官は身近な存在であり、別勢力ではあったが、時として協力する事態もあり得た。幼き天子が成長し外戚からの自立を求めた時も、相談相手には身近な存在である宦官が当たるのである。これではどう転んだとしても外戚、宦官の思う通りに天子は動かされてしまった。
外戚勢力と宦官勢力の入り組んだ覇権争いが、漢王朝の内情であり、実態である。
元皇帝を取り巻く状況も、その実態の通り、思惑絡む骨肉の争いの中にある。
時の天子、劉宏の即位は齢十二の時であった。後見となったのは、先帝であった桓帝、劉志の皇后であった竇妙という女性だった。劉志が崩御した際、彼には男児がなく、竇太后は彼女の父と相談し、王族の中から劉宏を帝位に据えた。このことから時の劉志は竇太后の養子に近いと言える。
周囲を竇太后の親族や息のかかった人間たちで固めた、典型的な外戚の布陣であった。
典型的な外戚の布陣とはいえ、この場合の特徴に、外戚の数人の中に清潔と言っていい、評判の高い正統派官僚がいたことにある。いわゆる『清流』に区分される存在であったのだ。彼らが重用されたという事実は宦官勢力におされていた清流勢力の大きな期待を抱かせたのであった。
その清流派の官僚たちはひそかに宦官勢力を皆殺しにするという思い切った計画をたて、竇太后に了承を求めた。しかし太后はそこまでは思いきれず踏みとどまってしまう。
官僚たちは、根回しの不十分な状態で計画を実行に移さざるを得なかったため、上奏文の内容が宦官勢力の手に落ち、計画が露呈してしまった。
宦官勢力の中の大物である中常侍、曹節らはその計画を知るや否や素早く切って返した。宮廷内での武力抗争が起こった末、官僚らは返り討ちに合い自刃して果てた。計画の事を知っていた竇太后もまた宦官勢力たちの工作により幽閉され、数年後に死に至った。
宦官専横時代の到来である。
時の天子、劉宏は元々が成り上がり。皇帝としての器は持ち合わせていなかった。何かにつけては口出しをしてくる目の上のたん瘤とも言える竇太后が居なくなってからというもの、皇帝の権限を利用してやりたい放題に振る舞い始めた。
官位を金で売り、各地から献上品を不当に徴収し、資材の貯蓄に熱中した。宦官の一人が諫めたとしても耳を貸そうともしなかった。
× × ×
そして、劉宏が霊帝として二十年余りが過ぎた。長年に及ぶ不摂生が祟り、劉宏の命の灯が消えようとしていた。
内廷にある皇帝の部屋に腹心の宦官が呼ばれた。
部屋は薄暗く、香が焚かれている。
皇帝の寝室へと入ることのできる人間は厳しく制限されており、皇帝の容体を自分の目で確認することが出来るのは一部の宦官のみであった。
寝台には肥え太った霊帝が体を横たえている。簾が引かれ影のみを確認できるばかりではあるが、霊帝は部屋に入った宦官を見たようである。
「蹇碩か。入るがよい」
その声は掠れていて生気がなく、呼吸すらも浅くなっていることがうかがえる。
蹇碩が寝台近くに寄ると、簾の隙間から霊帝の表情が少し垣間見えた。頬や顎に蓄えられた脂肪と、不自然に落ち窪んだ眼が見える。
「蹇碩、まいりました」
霊帝は瞳を閉じ、そのままぽつり、ぽつりと口を開いた。
「朕は、もう逝く」
「さ、さようで」
「後継には、協皇子を据えよ」
「は、はっ。畏まりました」
蹇碩の返答を聞き届けると、それっきり、霊帝からは呼吸が聞こえなくなった。
この報はすぐに内廷を駆け巡り、後継者争いが激化し、多くの血が流れた。
後継者争いの主な勢力は二つある。
一つは霊帝が遺言として残した、側室王美人の息子、劉協。そしてもう一つは何皇后との間に生まれた劉弁であった。
何皇后には黄巾討伐において大将軍を務めた、兄の何進が後ろ盾となり、すでに母を亡くしていた劉協には宦官勢力が後ろ盾となった。
そして――。
「来たか! 袁司隷校尉殿」
「何を畏まるか何大将軍よ」
朝廷まで馳せ参じたのは袁家の御曹司、袁紹。字を本初と言い、現在は司隷校尉の位に就いていた。
年若いながらも清廉で闊達な様は名門袁家の名に恥じず、諸人の間にも名を轟かせていた。
袁紹は新皇帝、小帝弁に謁見したその帰りであった。
袁紹は一瞬安堵の表情を浮かべた目の前の男、何進を見据えて口を開いた。
「いったい何事だろうか」
袁紹が問うと、言いづらそうに眉間に皺を寄せ、
「宮中の粛清を考えておる」
と、簡潔に一言、口にした。
「粛清とな」
ずいぶんと思い切った考えである。
袁紹は怪訝な表情を作った。
「そうだ。かろうじて弁を帝として擁立することは叶ったが、宮中に巣食う病理を一つでも残しては、後の禍根となる。宦官どもを皆殺しにするのだ」
予め用意してきたかのような言い分である。
自らの専横を正当化するための詭弁にしか聞こえない。しかし袁紹は首肯した。
「うむ。長年に及ぶ宦官の横暴は目に余る。私が兵を引き入れ宦官を根絶やしにする手伝いをしよう」
ここで恩を売るのも悪くはない。
猪にでも追いかけられているかのような必死の形相であった何進だったが、深く息を吐き出すと。落ち着き払った表情をとりもどした。
「おおっ。受けてくれるか。ならば我が妹にもこのことを伝えねばな」
額に掻いた汗を拭うと、後日使いを送るから、機を待って実行に移すよう言い残したあと、周りを気にしながら帰っていった。
その小さくなった後姿を袁紹はじっと見つめていた。
「大将軍もあとが無いと見える」
袁紹は鼻で笑うと、踵を返した。
17話:騒がしい李家
作戦内容は速やかに全軍に伝えられた。
劉備率いる義勇軍が、一度広宗に陣を敷く黄巾党に一度当たり、すぐさま山間部に転進し引き付ける。その後間延びした黄巾党軍の後部に、皇甫嵩率いる官軍本体が当たる。
一撃のもと、張角の首級を挙げ終結とする。
劉備が率いる軍は、広宗で向かい合う黄巾軍と官軍からほど近くに身を隠し、刻を待っている。
「さてさて、腕が鳴るぜ」
張飛は腕を回し、いきり立っている。
「あくまでも、敵を引き付けることが我らの役目だ、忘れるなよ」
「わかってるぜ。相変わらず小言が多いな雲長」
兄弟たちは戦いの前だというのに気負った様子は無い。その傍らの劉備は腰に履いた太刀を触りつつ精神を集中させていた。
「……そろそろか」
日が沈み、大地が黒く染まっていく。
この日差しが完全に無くなったとき、劉備軍は作戦を決行する。
劉備たちが潜む森が闇に包まれる。
夜が大地に広がる両陣営を隠した。
「ゆくぞ!」
劉備が声を張り上げると同時に、背後の兵が怒号を挙げ駆け出す。
「鳴らせ鳴らせぇ」
一際大きい張飛の声を掻き消さんほどに、銅鑼が打ち鳴らされる。敵に襲撃を知らせるためだ。
千を超える人間の足音と耳をつんざくような銅鑼の轟きは、さながら真夏に響く雷鳴のようである。
劉備軍は仄かに灯る黄巾軍の篝火を目がけて一直線に突撃していく。
あまりの衝撃に、地揺れに怯えて巣穴から飛び出してきた鼠のように、黄巾党は無意味に走り回った。官軍の兵に追いつかれたものから背中を切られ、掴まり引き倒され、首を落とさる。
「深追いはするな! 一撃を当てたのちに転進するぞ!」
鶴の一声で、軍は転進を始めた。
関羽は見事に指揮をこなし、部下たちはそれに応え見事な転進をして見せた。
「退けぇ! 益徳も退くぞ」
「わ、わかってらぁ!」
周りに群がる黄巾を薙ぎ払っていた張飛も、関羽に言われ、転進を開始した。
「……くっ」
劉備は倒れて動かなくなった仲間を一瞥すると、何かを振り切るようにして後退を始めた。
背を見せた劉備軍の姿に我を取り戻した黄巾党は思惑通りに劉備軍を追って進軍を始めた。
「このまま谷まで突っ込むんだ!」
暗く周囲の環境から得られる情報が限られる状況で、意識は目の前にいる憎き劉備軍だけに向かっている。背後に官軍が居ることなど、現在の暴徒のうち幾人が気にする余裕をもっているだろうか。
「これで終わりにしたいものだな」
思い通りに行き過ぎていることに幾ばくかの肩透かし感を覚えつつ、皇甫嵩の計略は、成功した。
広宗に再びの日の光が差し込み始めるころ、眠っていた鳥を飛び立たせる鬨の声が、響き渡った。
× × ×
本日稲飯は、半日休みである。
たまには体を休めろとのことらしい。午後からは開墾を開始してからの経過を纏めた資料を作成することになっている。
そこで今日は久しぶりにバンのエンジンを掛けた。幸いにしてバッテリーが上がっているということもなく、別段問題なく元気に駆動音を鳴らしている。
なんだか安心する。
この音は自分が現代から来た証拠になる。
燃料も尽きて動かせなくなってしまったらいよいよもって現代との隔絶を感じることだろう。そうなったときに自分が冷静でいられるのかどうか、甚だ疑問である。
「ふぅ」
ここは李家の倉の中だ。
座席に座ってセンチメンタルな気持ちにとっぷりと浸かってしまっていたとしても、ここは密室だ。
正直な話、ただでさえ海外出張の慣れない環境でくたびれていたメンタルである。時代まで飛び越えてしまっては心労も極まるというものだ。
『そろそろ出るかな』
周りに誰もいないとき、あえて日本語を呟いてみる。時々使わないと、話せなくなってしまうかもしれないからだ。
『使い道なんてここじゃ、無いのにな』
乾いた笑い声を自嘲気味に吐き出して、車のキーを抜いた。
バンから出ると、排気の独特な臭気が鼻についた。
『ああ、一酸化炭素中毒になりかねなかったか。危ない危ない』
わざわざ過去に飛んで一酸化炭素中毒で自殺とか、笑い話にもならない。
倉の扉を開き外に出ると、目を細めざるを得なかった。
空は日の出直後のブルーアワーを過ぎ、燦々と大地を照らしていた。
『だいたい九時くらいか…?』
さて、せっかくの休みだ、天気も良い。少し辺りをうろついてみるのもいいだろう。李家に雇われてから今までの時分、夜になればくたびれて泥のように眠ってばかりであった。
少しは体も順応してきたということだろうか。
たいしたことも考えずに歩いていると、賑やかな場所に着いた。
厩である。兵舎も近くにあったか。
「急げ。もうすぐ迎えが来るはずだ!」
「おいおい、武具の数が合わないぞ」
右へ左へと大わらわ、というのは言い過ぎだろうか。彼らは李乾が率いている兵士のようだが。
彼らは多事多端な様子をありありと見せつけていた。
この騒ぎは李乾が曹操の元へ発つ為の用意をしている為だ。この間、肩を握りつぶされそうになってから数日が経過している。早くしないと使いが到着してしまうのだろう、焦るのも無理はない。
稲飯はあまり目立たないように木陰に腰かけ、兵士たちの様子を眺めてみることにした。
せっかく休みなのだ。手伝えと言われたら面白くないので、結構距離を十分にとってある。
格好もただの農民にしか見えないことだろうし、そこいらの街の人間が物珍しさで眺めに来たくらいに見られるのではないだろうか。
それから体感で一時間ほど。頭の中を空にしてたっぷりと兵士たちの怱々たる様子を愉しんだ。
「蟻が荷物を運んでいるのを見ると、落ち着く時ってあるよなぁ」
「おいおい、滅多なこと言うもんじゃないぜ兄さん。ぶん殴られるぞ?」
「うおっ!?」
突然話しかけられて、思わず肩を震わせた稲飯が恐る恐る振り返ると、口の端を上げたショートカットの女性と目線が合った。
「き、聞かなかったことにしてもらえると有り難いです、ね。はは」
まずいものを聞かれたと、後ろめたい気持ちが稲飯の声のボリュームを一挙に絞った。
女は稲飯の呟きを聞き洩らさなかったようで、いよいよ笑い声をあげた。女は稲飯に近づいてきて、隣にどかりと座り込んだ。
「え? え?」
「私も付き合うわ」
言うべきことは済んだぞと言わんばかりだ。それっきり、女は喋らなくなった。
困惑して何者なのかを聞き出すタイミングを失ってしまった。女は兵士たちを見てなぜだか楽しそうな顔をしている。いったい何者なのだろうか。
それからしばらく、稲飯は体育座りで、
女は胡坐を掻いて、兵士たちの仕事ぶりを眺めていた。
「兵士さんたち、大変そうですよね」
「ん? なんでだ?」
「曹将軍からの使いがもうすぐ来るんだそうで、それまでに出立準備を整えないといけないって」
「ほうほう」
なんとなく無言が気になって口を開いてみたが、女は思いのほか食いついてきた。
女の口角がさらに吊り上がったような気がする。
「そういうあんたはただの農民ってわけじゃないな」
「わかっちゃいます? まあ、李家に仕えてるただの文官ですよ」
稲飯がそういうと、女は意外そうに、
「へぇ。文官が何でそんな農民服なんぞを着ているんだ」
と言った。
「開墾中でしてね。その手伝いもしてるんで。今日は休みですけど」
女は訝しそうに眉を顰めて、すぐに先ほどと同じように口の端を吊り上げた。
「文官が開墾の手伝い? 物好きもいたもんだ。兄さん名前は?」
「稲飯浩。あなたは?」
「覚えたぜ。私のことは妙才と呼んでくれ」
「妙才さんですね」
「妙才だ。変に畏まらないでいいよ」
「……妙才。わかった」
年も近いか、少し下みたいだしな。
「妙才様! 勝手にいなくなったと思ったらこんなところにいたんですね」
今度も女の子だ。こちらへと走り寄ってくる。
「あれ?」
「おお、文兼か」
そうだ、楽進だ。確か字は文兼と名乗っていた。
「李乾殿がお待ちですよ……あ、えと、流浪者の、稲飯殿ですね。お久しぶりです」
「流浪者になった覚えはなかったんだけど」
しかし、あの時は傍から見たらそう見えただろう。強くは反論できなかった。
「なんだ、文兼の知り合いだったのか」
「はい、邑に戸数調査に行った際に知り合いました。あのまま李家に?」
その問いに頷くと楽進はよかったと喜んでくれた。何とも純真そうな娘である。
「妙才。文兼さんに様付きで呼ばれているところを見ると、お偉いさんなのか」
こんな態度で接してしまって、今更首でも刎ねられたらたまったものじゃないな。
「まさか。でも、文兼よりは役職が上なのは間違いないけれどな」
後頭部をぽりぽりと掻きながら、むず痒そうに答えた。
そして、楽進が補足するように告げた言葉は稲飯を久方ぶりに驚かせた。
「妙才様は曹孟徳様に仕える将軍の一人ですから当然です」
「んんん! 曹孟徳だって!?」
曹孟徳の部下って、この娘がか。
「うおっ。稲飯よぉ驚かすなよ。しかも唾飛んでるし」
「……み、妙才。ちゃんと名前を教えてくれないか?」
神妙な面持ちで問い詰めると、妙才は面倒くさそうにしつつも答えてくれた。
「なんだころころと表情の変わるやつだな。たく、しかたないな。私は姓を夏候、名が淵、字が妙才だ。これでいいか?」
夏候といったら曹操の側近の姓だったな。夏侯淵という名前も聞いたことがある気がする。
ついに三国時代のビックネームに出会ってしまったようだ。
……あれ?
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
おかしい。
「なんだよ。またなんか聞きたいことでもあるのか」
「お前、女、だよな。男じゃなく」
女っぽいが、男なのだろうか。
「なんだ初対面で失礼だな。私は正真正銘女だぞ」
……んん?
夏侯淵って女だったのだろうか。良くは知らないが。
日本にだって性別不詳の武将なんかの話は聞いたりする。
「うちは結構女多いぜ。姉さんも男顔負けの強さを誇っているしな」
「姉さん?」
「元譲って言ってな。これまた滅法腕が立つんだ」
元譲。夏候惇の字って元譲って言ったような。あれ、姉さん?
「大将も女だしなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けたような、糸が切れたような衝撃が走った。
夏侯淵の言う大将とは曹操のこと。そしてその大将が女であると。
「――――!!?」
稲飯が、座った姿勢のまま頭を抱え小さくなるには十分な衝撃であった。
「はあ。稲飯殿ってよく取り乱しますね」
楽進は心配そうに見下ろしているが、それに反論する余裕は稲飯の心のどこにもなかった。ようは混乱しているのである。
大将ってこの話の流れから察するに、曹操のことを言っているはずだ。だとするとあまりにもおかしい。
「……っ!」
曹操が女だって?
16話:義の侠
若い時から西部辺境の羌族に混ざり、その実力を養った。生まれついての武芸の才能を余すことなく発揮し、その腕力は目を見張るもので、馬上から左右どちらの手でも弦を引き絞ることが出来た。
若きときはその顔立ちを武器にして、異民族を渡り歩き、各民族の顔役との交流を愉しんだ。
桓帝の死の間際、天水、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の生え抜きから、郎を選ぶことになると、董卓は羽林と呼ばれる皇帝直属の部隊を率いる役職についていた。羌族が反乱を起こした際には、并州征伐軍に、司馬として従軍し大勝に導いた。
この功績により絹九千匹を賜ったが、この活躍は部下たちの働きぶりのおかげだと言って、それらすべてを部下たちに分け与えたのだ。その心意気から侠客としても彼を慕うものも多かった。
辺境の一将軍に過ぎず、良家の人間とは言えないながらも、辺境民族に認められ、そして恐れられているその実力から、信頼を得た生粋の英傑といえる。
今に至るまで刺史や太守などを歴任し、その羌族の進行を食い止め続けた。その数はゆうに百回を超えている。
脂の乗った齢を迎えた今に至っても、その剛腕を幾ばくも鈍らせることはない。
× × ×
「仲穎殿、いかがだろうか」
「おうよ、義真殿か。彼奴らの様子はどうだろう」
皇甫嵩は帷幕の内に入り、董卓に声をかけた。
義真と呼ばれた女性は名を皇甫嵩と言う。義真というのはその字である。
両将軍は冀州、広宗の地に陣を張っていた。黄巾の首謀者である張角がこの地にいるためである。
「あくまでも抵抗の姿勢を続けるようです」
「そうか」
董卓は一言だけ、答えた。
その表情は、苦虫を噛み潰したかのように歪んでいた。
まず、張角をこの地まで追い詰めたのは盧植という中郎将であった。冀州にて蜂起した張角率いる黄巾軍を、盧植は数で劣るにも関わらず、をさんざんに討ち果たし、広宗に立て籠もらざるを得ないようにした。
このままならば、張角の首級を挙げるのも時間の問題と思われた。
しかし、この時たまたま軍の監察に訪れた宦官の左豊という男に賄賂を要求され、それに対し「糧食乏しき現状に、勅使に献上できるものなどございましょうか」と言って断ったところ、都に戻った左豊は霊帝に讒言を行い、盧植を罪人に仕立て上げ、免職させた。
盧植の代わりに勅命によって広宗に派遣されたのが、同じく中郎将であった董卓だったのである。
そして、董卓は敗戦した。
「俺にはどうもあの目を見て斬り捨てる気になれんのだ」
董卓はぼやく。
「託ち種としか聞き取れませんよ」
「……」
西方の出身者に多い、赤茶けた髪を乱暴に掻き上げると、眉間には深い皺が刻まれていた。
董卓は元々、西方の遊牧民族を相手取った戦闘を得意としている。騎馬を相手にすれば、百戦百勝と言っていいほどである。
しかし、黄巾を頭に巻く者たちのほとんどは農民か、騒ぎに乗じて集まった匪賊どもである。よって統率感なく突撃を繰り返すばかり。騎馬兵団などを相対すような状況になど、なりえなかったのである。
董卓軍は羌族征伐の際に吸収した乗馬能力に長けた人材が主な構成となっており、歩兵中心の戦闘は少々苦手であった。
董卓の敗戦の知らせを受けた霊帝は、潁川での活躍を見込まれた皇甫嵩を広宗討伐に追加投入したのだ。
「まあいいさ。左中郎将殿に、後事は任せるとするぜ」
董卓は帷幕を出て行った。
これから董卓は洛陽に戻ることとなる。
おそらくではあるが、今回の敗戦の責を負わされることとなるだろう。
「気に入らないわね」
権威には媚びず未練などは無しといった態度だ。何やら引っかかる。
皇甫嵩の目には董卓が、侠を『気取った』男に見えて仕方ないのである。
「まあ、いいわ。まずは盧将軍の残した仕事を片付けましょう」
皇甫嵩は意識を広宗にて徹底抗戦の構えを見せる張兄弟をどう打ち破るかに向けることとした。
董卓が敗北したのは騎馬部隊を活かす為に野戦に持ち込んだことにある。
烏合の衆とはいえ、数は多い。普通に戦ったのでは数の力で押しつぶされてしまう。
奇正という言葉がある。敵と対峙する場合は『正』つまり正規の作戦を採用し、敵を倒すのなら『奇』すなわち奇襲作戦を採用するという一般的な戦い方を表した言葉である。
董卓は自軍の力を過信し、野戦に持ち込んだ。董卓の率いる軍を弱兵と評価するものはいない。しかし本来、数に劣る官軍方は搦め手で戦うべきだったのだ。
皇甫嵩は眉を顰めた。
先の戦闘によって、黄巾賊は野地に陣を作ってしまっている。これでは正面からぶつかる羽目になってしまい董卓の二の舞になること必至だ。
広宗にて陣を構えてからはや数日が経過しているが、戦況は膠着している。董卓が指揮を執っていた時間も含めるなら、1月ほど持ちこたえられてしまっていることになる。
糧食も有限だ、あまり時間がない。
「この奥にある。絶澗、天井の地形が織り交ざる場所を利用したいところね」
現在駐屯している場所は平原であるが、西に太行山脈、そして北に広がる飛燕山脈に見えるように、この周辺は険しい地形が多いのだ。
どうにかしてこの狭い地形に黄巾軍を引き込むことが出来ないだろうか。
それには一度敵軍を叩く必要があるが、すぐに転進し、着かず離れずで敵を引き付けなければならない。機動力が重要な作戦だ。遺憾ながら皇甫嵩の率いる官軍に、この策を実行に移せるほど練度の高い部隊がいない。
「困ったわ」
潁川、長社での戦闘の様に火計を用いるという手もあるが、こちらが風下に当たっている。火を放ったとしても、味方の被害のほうが甚大になってしまうだろう。
その時、帷幕に声がかかった。
「将軍。報告が」
部下の声である。皇甫嵩は部下を帷幕の中に通した。
「失礼いたします。将軍にお目通りを願う者が、陣営に参りました」
「名は?」
「劉備と名乗っております」
「劉備……聞かぬ名だな」
この忙しい時に。
朝廷がよこした使者の類だろうか。
「まあいい。通せ」
「はっ」
部下が踵を返し外へ出ようとした瞬間に
「子幹先生!」
若い男が一人、帷幕のなかに飛び込んできた。
反射的に、部下は武器を取った。
「無礼な!」
いきり立つ部下の剣幕に、突如飛び行ってきた男は、目もくれていない。
男は息を乱し、肩を上下させている。帷幕の中を見回し、目当てのものが見つからなかったのか、唇を引き結んだ。
「兄者よぉっ! ぬおっ。兄者に刃を向けるたぁいい度胸じゃねぇか!」
追ってもう一人、一際肩幅の広い男ががなり声を上げながら帷幕に入ってきた。
いよいよもって皇甫嵩の眉間にも皺が寄ってきた。
さらにもう一度、帷幕の幕が開かれる。
入ってきたのは若い女性であった。
「兄者。益徳。将軍の前だ、落ち着きめされよ」
女性の一言で二人は静かになった。
「この忙しい時に。軍を掻き乱すつもりで来たのなら、懲罰の対象となるが、そのつもりか」
皇甫嵩が尋ねると、若い男が代表して返答した。
「失礼仕った。私が劉玄徳。そしてこちらが益徳に、雲長」
「関羽、字を雲長にござる」
「張飛だ。字は益徳」
慇懃な態度を崩さない関羽と、対照的に不遜な態度の張飛が劉備に追って、名を名乗った。
「我ら、各地に頻出する賊を討つため立ち上がった義勇軍にござる。冀州にて恩師である盧子幹先生が賊と交戦中という情報を得て飛んでまいったのだが」
子幹というのは中郎将、盧植の字である。
「盧将軍はここにはいない」
「そうか。道中に聞いた噂は真であったのだな」
劉備は沈痛な面持ちを見せた。
「先生は。死んだのだろうか?」
「いや。まだだ。盧将軍はそもそも宦官の讒言によって獄に掛けられているだけの御身だ。張兄弟の首級を挙げ、私が助命の願いをしてみようと考えている」
皇甫嵩の言葉に、劉備は喜色を浮かべた。皇甫嵩はこれに「喜ぶのは尚早だ」と言って続けた。
「言ったであろう。張兄弟の首級を挙げないことには、助命の願いどころか、私の免職もありうる」
討伐のために何が足りないか、それを劉備に話すと、劉備の後ろで黙っていた男が鼻を鳴らした。
「そりゃあ、俺たちが適役だろう」
張飛は自信ありげに言いのけた。
「なあ、どう思うよ。適役だよな」
逞しい腕を組みながら、隣に佇む女性、関羽に問うた。関羽はしばしの思案の後、一歩前に出て拱手し、答えた。
「我らは各地で黄巾討伐の為に走り回っておりましたので、兵士の経験は十分でしょう。少数での行動にも慣れておりますゆえ、指揮を誤らなければ、可能かと思いまする」
滔々と自らの見解を説いた関羽は再び、後ろへと退き、押し黙った。張飛はそれを見て苦笑いを浮かべている。
「ふむ。そうだな。我らなら出来る。皇甫将軍、どうだろうか?」
「……わかった。まずはお前たちの兵を見させてもらおうか」
皇甫嵩は提案を受諾し、作戦が動き出した。
15話:来訪-2
稲飯と李典が開墾の監督をしているところに、思わぬ客人が現れた。
名を戯志才と名乗る女性であった。
× × ×
稲飯が李典から開墾の手助けを請け負ってから、数週間の時間が経過していた。
といっても実際に開墾作業に手を付けることができたのは、昨日からである。
この数週間、町の農夫たちの説得に費やしてしまった。
開墾をするにあたって稲飯が提案した牛の力を用いた土起こしの方法、牛耕は、この辺りの地域ではあまり一般的でなかったようで、受け入れられなかったのである。
人力二人組で土を掘り起こす昔ながらの方法が良いと、新しいことはわからんと言い、稲飯の説得には耳を貸そうともしなかったのだ。
途方に暮れかけた稲飯だったが、李典に話したところ、牛耕はすでに大陸において行われている技術であるという。
李典が農夫たちの説得を手伝ってくれることになった。
少し安心した稲飯であったが、李典は準備費用で少々不安があることを稲飯に伝えた。
後漢の時代は前漢から続く重要資源の専売制が残っている。塩や鉄などがその例だ。
不安ばかり抱えていても先には進まない。まずは鉄を手にいれなければと、李典。
稲飯がとった行動は李乾に直談判をし、軍備に用いる鉄を分けてもらうことだった。
李乾の眼力に肝を冷やしたが、耕作効率がどれだけ上がるか、それによりどれだけの利益を見込めるかを説いたところ、鉄を分けてもらえることになった。
町にいる鍛冶師に試作品を作ってもらい、農夫たちを集め、やっと農夫たちの興味を引くことができたのだ。
そして、農夫たちが牛耕の手応えを確かめている様子を遠目に気にしつつも、稲飯は李典とともに、客人である戯志才の前に座っている。
「牛を用いた土起こしを用いるのですね。この辺りではあまり用いられない方法です」
戯志才が言った。
「はい。こちらの稲飯殿が提案してくださり、実行に移すことができました。あくまでも試験段階ではありますが」
李典が稲飯の紹介をすると、改めて戯志才の視線が稲飯に向けられた。
「稲飯、殿ですか。聞きなれない名ですね」
「はぁ…。まあ珍しいかもしれません」
と、お茶を濁す。
というのも、未来から来たなどという荒唐無稽なことを吹聴すると、危険視した人間から命を狙われるとも知れない。ゆえに安易に言ってはならないと李典から釘を刺されているのだ。
「今は、ただ、李家の文官として拾っていただいた恩を返すために生きている者です」
稲飯がそう言うと、戯志才は感心したように頷いた。
「稲飯殿はなぜ牛耕をご存じで?」
「う、まあ。書物などで」
「氾勝之の書を読んだのですね。それならば納得です。稲飯殿はしっかりとした知識を持ったお方のようですね」
まずい。氾勝之書がなんの書物なのかすら知らない。あまり長居をするとボロが出そうだ。
「で、では、俺は牛耕の様子を見てくるよ。大丈夫だよね、曼成さん」
焦った稲飯は、戯志才の本命は自分ではなく李典であるため、場違いな自分は退席する。
と、いうことにして席を外すことにした。
「かまいません。大丈夫ですよ」
「ふむ。それでは、あなたもしばらく席を外してください」
李典が答えたのを見ると、戯志才は自分の御供にも席を外しているよう命令をした。
李典が稲飯の気持ちを汲んでくれたことに感謝しつつ、逃げるようにして牛耕にはしゃぐ農夫たちのもとへと向かっていった。
二人が居なくなったことで、話し相手はお互いに一人だけとなり、腹を割って話すこともできる、そんな状況となった。
「………」
「………」
二人は不言のままに、その心の内を読み合っているかのように、視線を交える。
口火を開いたのは戯志才であった。
「曼成殿。あなたの言葉でこの大陸の今を語っていただきたいのです」
戯志才の言葉を聞き入れたはずの李典は、たっぷりと間を取ったのちに、ふうと息を吐いた。
「あのように――」
そう呟くと、李典は視線を横へと向けた。
それに釣られて同じように視線を向けると、何のことはない、先ほど席を外した稲飯が農夫たちと大地を耕していた。
「……黄巾の一揆が起こってしまったのは毎日の食にも事欠くような民の、鬱積した怒りが溢れた結果です」
その瞳は優しく。そして悲しそうに見えるのだ。そして李典は淋しそうに続けた。
「流れる血を見て、忸怩たる思いを抱きました。座して学ぶことが、いずれこの大陸に役立つことに繋がると信じていました。しかし実態は、学んでいたことの何より、惨く悲惨で、火急な様をありありと私に見せました」
「………」
「私には人を率いるほどの才はありません。できることと言えば知恵を回すことだけでした。ですが、行動を起こすことなら誰でも、今すぐにでもできるということを知りました」
李典の瞳には、稲飯が牛耕の板から転げ落ちて農夫たちに笑われている様子が映っていることだろう。戯志才の目にも、しっかりと映っていた。
「座して筆を執るだけが修学の道ではないこと。ちっぽけな一人が何かを変えることもあるということ」
李典は視線をそらさず、ゆっくりと、自身に言い聞かせるように、続けた。
「大陸を落ち着かせることなど、今となっては現実感もなく、可能であるかどうかすらわかりません。いずれ、英傑が現れ大陸に平穏をもたらすのでしょう。しかし、今この時を生きる人々は誰にも救われる権利はないのでしょうか、そのようなことに納得はできません。私は、周りの誰かを笑顔にできる、そんな存在になりたいのです。いずれ、その笑顔が大陸に広がると信じて」
二人の間に静寂が流れる。
風がそよぎ髪を揺らし、空高くに雁行する雁の群れが、鳴いている。
「ありがとうございます。とても有意義な言葉をいただきました。曼成殿のような気持ちを、この大陸が少しだけ思い出せば、思いは通じるように、私も思います」
青臭く若い考えだ。甘いと言ってしまえばそれまでだろう。
しかし、だ。
腐敗する大樹が根を張るこの大地に、このような土壌がいまだに存在するとは、些か驚いたものである。
戯志才は、李乾が会わせてみたいと言った訳が分かったような気がした。
× × ×
「ふふ。李曼成、ですか。見どころのある少女ですね」
私よりも少々若い少女でありながら、国を憂う気持ちを抱え、行動を起こせないことに悔しさを抱えている。そんな彼女が然るべき士官先を見つけることが出来れば、その思いは明確な形にすることが出来るようになるだろう。
李典と別れ、戯志才は鉅野県を出立した。この後は、一度穎川へと戻るつもりである。ふと、故郷の様子が気になったのである。
「さて、穎川の様子を見た後は……気は進まないですが、袁本初殿の元に行ってみましょうか」
才気煥発たる人物は各地にいる。近い将来起こるであろう戦の世に向けて、そういった人物らは皆、水面下で行動を起こしている。戯志才も、時が来れば然るべき人物の元に仕官するつもりである。それ故に力を持つ人物の元を訪れ、その考えを知る旅を続けているのである。そういった人間が袁家の人物に顔を見せるのは必然と言える。
「どこかに真の俊英あらんや」
戯志才は呟き、その歩みを進めた。
14話:来訪
――山陽郡、鉅野県。
昨日の雨のお陰でゆっくりと体を休めることができた。雨上がりの匂いを感じつつ、私は足を進める。笠のつばを上げて空を仰ぐと、層雲を浮かべた空が太陽の光をはじけるように反射させ私の目を楽しませてくれた。
かれこれ半年になるだろうか。穎川郡から出立し、見聞を広めるために賢人英傑を訪ね、交流を結ぶ旅をしている。
私が山陽郡に入ったのは二日前になる。
「戯志才様。これから我らはどちらへ?」
後ろをついてきているのは御伴として雇った剣客である。口数は多くはないが、腕の立つ男である。
女一人での旅である。こうして腕の立つ人間を伴として連れ歩かなければ一日と持たずに荒野に屍をさらすこととなるだろう。
「そうですねぇ。袁太守の許へ顔見せをしたのちは李乾殿とお話ししてみましょう。乗氏県に向かいます」
「了解いたしました」
伴は荷を背負いなおし、再び歩みだした。
× × ×
私は太守である袁遺の元を早々に発った。
袁遺は噂に違わず器量良く、学識もまずまずの人物であったが、少々魅力に欠ける人物であった。人を引き付ける何かが足らないように感じた。
袁一族は、朝廷において四代にわたり三公を輩出した名門として有名であるが、今後乱れていくであろうこの大陸の上で、覇権を握ることのできる人物はいないであろうと見ている。
袁家は私の求めている英傑の姿ではないのだ。
「さて、次は李乾殿のもとへ向かいましょうか」
そして二日後。乗氏県にたどり着くと、肩透かしを食らう羽目となった。
李乾は李家の邸宅のある鉅野県の地にいるというのだ。
鉅野は山陽郡にあり、乗氏は済陰郡にある。隣り合っているとはいえ、移動距離としてはそれなりである。
乗氏で聞いたところによると、李乾は、最近になって各地で名を聞くようになった曹操という人物の幕下に、軍を率いて入ることになったらしい。
豪傑として名高い士大夫、李乾が認めた人物とは、曹操という人物像にも興味が湧いてきた。
まずは当初の予定通り、李乾に会って話をするために、私は鉅野県に向かった。
山林平野が目立つ景色に、小麦畑が見当たるようになった。町が近いようだ。
秋季の作物のためか、土壌を耕すための掛け声が遠くに聞こえる。
ゥモォゥ
「牛?」
若い男たちの、耕作の掛け声に交じり、牛の鳴き声のようなものが聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
「見えました、李乾殿の邸宅はあの街の中だそうですね」
「あ、はい。そのはずです」
御伴の言葉に、些細なことへの興味は薄れ、目の前の町へ興味は移った。
「さあ、向かいましょうか」
今度こそ李乾殿と論を交えることができる。
× × ×
町の住人に声をかけつつ李家の屋敷にやってきた。門の前に、明らかに常人とは懸け離れた体躯を有する偉丈夫が指揮を執っていた。
「李乾殿でございますか」
声をかけると、偉丈夫は振り返った。
「む? そうだが、貴女はいったい何某か?」
「私は、豫州は穎川郡からまいりました戯志才と申します。見識を広めるため、諸国を漫遊しております」
「ほう」
急な訪問だというのに、幾許の動揺の様子も見せない正しくの大丈夫である。
部下に作業の指示を出し、少し離れた場所で、話の場を設けてくれることになった。
「して、戯志才殿。貴方は儂に会いに来たと?」
「はい」
李乾殿は顎を撫でている。その額には深く皺が寄っている。
「どうかなさいましたか」
「儂のような武骨者に見識などという言葉が似合わんのではないかと思ってな」
「いえ。李乾殿のように、武に生きる方のお話も、智に生きる人物のお話も、等しくこの地の想いとして聞き入れたいのです」
李乾殿の目を見て率直に思っていることを話せば、彼は少々目を丸くし、眩しいものを見るように私を見た。
「儂のような老人の話もこの国の言葉として聞いてくれおるとは、なぁ」
目を細め一息つくと、李乾殿は話を続ける。しかしそれは残念なものだった。
「儂は曹の名の下に仕え、この武を振るうことを決めた。ゆえに己の考えを外に語る言は捨ててしまった」
「……」
しかし、李乾殿は好々爺然とした笑みを浮かべ、さらに続ける。
「未来を作るのは若者達だ。ゆえに、戯志才殿、儂はそなたに引き会わせてみたい者がおる」
「引き合わせてみたい者、ですか」
「うむ。たしか、今頃は町の外の開墾作業を見ているはずだな」
意外な要求を受けたものだが、私は現在風来の身である。寄り道、道草は結構なことだ。
「その方の名は?」
「李曼成。儂の姪御だ」
「姪ですか」
何と言えばいいのか。筋骨隆々の女性が槍を振り回している姿を幻視したような気がした。
「何を想像しているのかわからんが、儂とは正反対の人間じゃぞ」
「あ、いえ……あはは」
慌てて誤魔化したが、李乾殿は腕を組んだまま半眼になってしまった。
「突然の訪問にも対応していただきまして、有り難うございました」
「うむ。旅の安全を祈ろう」
李乾殿は、現在曹操が治めている済南へ向かうための準備で忙しそうなので、一人で曼成殿の元へ向かうことにした。
屋敷の外に待たせていた供を連れ、町の外へ出て曼成殿を探してみれば、すぐにそれらしい姿が見つかった。
探してみれば何と言うことはなく、先ほど響いていた牛の声がした場所であった。
男性の叫ぶ声が聞こえる。
「う、うおぉおおお」
どうやら土壌を耕しているつもりなのは理解できるが、これはいったいどういうことなのだろうか。
牛に縄を括りつけ、その縄は男性が乗っている板のようなものに括り付けられている。
手綱を握っているその顔は恐怖に歪んでいるようでいて、焦っているような風にも見える。
そして、その姿を少し離れた場所から眺めている人だかりがあった。十数人ほどだろうか、農民風の男性の集まりの中に、一人だけ若い女性が混じっている。
他にそれらしい女性は見当たらない。おそらくあれが李乾殿の言っていた曼成殿だろう。
「兄さんよぉ! だいじょーぶかぁ」
農夫の一人が板に乗った男に声をかけた。男の危機迫った表情に反して間の抜けた声に聞こえるのは気のせいだろうか。
「はは。大丈夫、大丈夫。でも、結構難しいな、これ」
男は誤魔化すように笑っていたが、見かねた農夫が手綱を受け取り、板に足をかけた。
そして難なく乗りこなしていた。
「おおっ。確かにこれは楽だべ」
農夫は感嘆の声を上げた。
それもそのはず、農夫の乗った板が通った後は見事に土が掘り起こされているのだ。
これには私も驚いた。
「くっ、流石に地力が違うんだなぁ。まだ若いつもりなんだけどな……」
男はその場で膝を抱えてしまったが、その様子を見かねたのか李典殿が慰めている様子だ。
あの二人にいろいろ聞きたいことができた。大はしゃぎの農夫たちをしり目に、私と従者は二人の元へと歩み寄った。
「え、叔父様が私を紹介したと?」
「はい」
曼成殿は目を丸くしていたが、経緯を説明すると納得したのか、歓迎してくれた。
話を聞きたいことを曼成殿に話すと、隣で小さくなっている男を同席させることを条件に頷いてくれた。
先ほどの様子から男には武術の心得はないようだし、こちらには武に覚えのある従者が控えている、私は了承し、曼成殿に促され、腰を据えて話すことのできる場所へと移動することになった。
農夫たちが耕す様子を眺められる位置に陣取り、芝の上に腰を下ろした
。
正面には李典殿、そしてその隣には声を上げていた若い男が座った。私の従者は少し後ろに控えて座っている。
私は曼成殿に向き直り礼をした。
「改めまして、名乗らせていただきます。私は戯志才。見聞を広めるため、各地を旅している身です」
「はるばるようこそ。私は李曼成。歓迎します」
知識の蓄えられた理知的な目だ。
旅は良いものだ。思わぬ出会いがある。
私はこの出会いに感謝した。
13話:信賞必罰の女
城内は剣呑とした雰囲気に満ちていた。
謁見の間に白い鬚を蓄えた翁が数人、跪かされていた。彼らは悲痛な表情を浮かべ叫喚している。
「曹相様! お考え直し下さいませ!」
「我々が一体何をしたというのです! 当然の権利を行使したまで!」
官服を着た老人たちが頓首を行った。
額が石敷きにごつりと鈍い音を立てた。
「……」
謁見の間の奥に座る女性、曹操の瞳は冷たい。目の前で必死に助命を願う男たちに向ける視線は、人間に向けるそれではない。
「賄賂をとり、法を曲げ、私腹を肥やすことしか能のない官吏ごときの言に傾ける耳を私は持たないわね」
厳冬に吹き荒ぶ風のような言葉が老官吏の耳を刺した。
思わず顔を上げた官吏達の表情は土気色に染まり、瞳は動揺を隠せずに揺れていた。
「この者たちを獄にかけよ。追って沙汰とする」
曹操が非情に言を発すると、官吏の傍らにいた部下の数人が、老官吏の両腕を取り、連れ立とうとする。しばし抵抗を見せていた官吏であったが、部下に打擲されるや押し黙り、成されるがまま、引きずられていった。
官吏が謁見の間から引きずられていくのを見送ると、曹操は部下たちを払った。
謁見の間に残ったのは曹操と夏候惇の二人のみである。
曹操はほうと息を吐いた。眉間に指を当て疲れた表情を隠そうともしない。
それをみるや、曹操の傍らについていた夏候惇が眉根に皺を寄せたまま口を開いた。
「孟徳、機嫌が優れんようだな」
「そう見える?」
「ああ」
「それはそうよ。宦官どもの思惑が透けて見えるのだもの。こんな辺境に飛ばして、面倒事まである始末。まあ、面倒事の大方は今片付いたけど」
曹操が不満顔でそう言うと、夏候惇は同じ表情で鼻を鳴らした。
曹操たちは現在、済南の地にいる。済南は黄河に沿った平野部と泰山へと続く丘陵地帯に挟まれた地域を指す。
曹操は長社における黄巾賊討伐の活躍を賞され済南の相の役を受け、この地に至ったのである。
「宦官の連中、私のことがどこまでも気に入らないと見えるわ」
相という役はこの時代において郡の太守よりも上位の地位にあたる。実質的に、済南の太守として民政を司る役目を言い渡されたわけである。
この部分だけを切り取ってみれば、出世したと喜ぶこともできようが、この配属の裏には宮中に巣くう病理どもの思惑が透けている。
済南相となる以前の曹操は、頓丘の県令であったとともに都のある洛陽を守護する立場であった。宮中の宦官は、若くとも確乎不抜たる曹操が自身の地位を危ぶめる可能性を危惧し、先手を打って地方に飛ばしたと曹操は考えている。
実際、済南に巣くって暴政を働いていた官吏を曹操は許さず、就いてすぐさまその悪事を明らかにし、多くを排斥または罷免した。そのまま洛陽に置いたままならいつかは曹操の手によって私腹を肥やしていた宦官の地位は奪われていたことだろう。
「さて、これからの私たちの行動だけれども」
「まあ、頓丘の時と同じだろう。規模が少々大きくなっただけだ」
と、夏候惇は答えた。
「ま、そうね」
笑みを浮かべてそう言うと曹操は玉座の肘に頬杖をついて足を組んだ。
済南を豊かにし、曹の旗のもとに集まる人材を集め、来る時のために力を蓄える。
「洛陽に草を入れておくことも忘れないように」
「わかっている」
「そういえば、李乾はどうしたの?」
「それなら直に文謙と妙才を使いに送ることになっている」
「そう」
状況報告をした夏候惇の表情はいまいち固く、呆れているようにも見える。
李乾との面識があり、会話も交わしているということから、使いとして楽進が選ばれるのは妥当と言える。
だがしかし。
「妙才のやつ、ごねたわね」
「……はぁ。まあ、孟徳の想像通りだ」
夏候惇が楽進に李乾を連れてくるよう伝えたことを、夏候淵はどこからか聞きつけ自分も行くと駄々を捏ねたのだ。
「あやつは少々短慮に過ぎる」
「いいじゃない、新しい人材も増えてきたところだし、仕事を任せてみて割り振りを考えるいい機会だわ。新しく武官として取り立てた者に調練させてみましょう」
呆れる夏候惇を楽しそうに見ながら、曹操は言った。
「わかった、そのように手配しよう」
話が終わると、夏候惇は謁見の間から出て行った。
曹操は立ち去る夏候惇の背を見つめ、一人笑みを浮かべていた。
排斥した官吏どもが貯め込んでいた賄賂や、重税によって集められた必要以上の銭や食料は民に返還してある。すでに町に住まうものからは曹孟徳を称えよとの声が上がっている。
城下には活気があふれ始め、良政を敷いていることを聞きつけた士人賢人が士官の旨を伝えに来る。それらを多く採りたてて曹操の陣営は急激に厚みを増している。
「精々力を高めさせてもらいましょう。すぐに事が起こるだろうし、ね」
黄巾賊の一揆はいまだに各地で発生している、首謀者である張角の居場所はまだ突き止められていないということであるし、宮中内部でも怪しい動きが見え隠れしている。いよいよもって漢王朝という大樹の腐敗が露呈してきた。根元から倒れるのも時間の問題であろう。
「楽しみね」
私の歩む道に立ちはだかる傑物の登場が。
胸中に秘めるは己の固い意志。それは覇道。大陸に平定をもたらすのは自分だという確固たる自信が彼女にはあった。
「兗州は済南。私の覇道はここから始まる」
曹操は不敵に微笑んだ。
× × ×
済南城下の町の外数里の位置に、騎馬武者が十数人、出立の準備を行っていた。
中でも一人、逸る気持ちを抑えきれずにすでに騎乗している女武人がいた。武者を背に乗せている馬もやる気満々に嘶いている。
「文謙! はやく行こうぜ!」
叫んだ武人、夏候淵に走り寄って行くのは楽進である。
「はぁはぁ……妙才様。長距離の移動になりますので、糧食も持っていかなければならないのですから、もう少し辛抱してください」
荷物片手に、楽進は額に浮かぶ汗を拭いつつ、夏候淵に進言した。
町の方から数人の兵士が大荷物を担いで歩いてくるのが小さく見えている。おそらくあれらが糧食であろう。
「わかっているさ。だが、私は走りたいんだ。我儘なのはわかっているが、急いでくれ」
「妙才さま……」
綺麗な形の眉を歪めながら、楽進は肩を落とした。
「妙才様。だったら馬に糧食を積むのを手伝ってください」
「ええ……まあ、仕方ないな」
夏候淵は素直に首肯した。
二人が話しているうちに追い付いてきた兵士たちから糧食を受け取ると、皆で馬の腰に荷物を括りつけていく。
二人の背後で兵士たちが威勢よく荷造りを進めている。
作業がてら、夏候淵は楽進に話しかける。
「たしか、李乾の軍を鉅野まで迎えに行ったとき、李家の才媛と会ったって言っていたよな」
楽進は友人となってくれた女性の顔を浮かべたのか、途端に喜色満面となった。
「はい! 曼成さんです」
にへらと笑顔を浮かべ始めた楽進に少々気押された。
「李曼成か。で、どうだった?」
荷の縄を固く結びつけ、塩梅を見ながら二人の話しは続いている。
「どうとは?」
「人物像だよ。聞けば李乾の姪子だという話じゃないか」
尋ねられた楽進は作業の手を止め、顎に手をあてた。
「そうですねぇ。とてもお優しい方でした。お友達になってくれましたし」
「と、友達。お優しい……か?」
「はい!」
想像していた印象とは違ったため夏候淵は言葉を濁らせた。豪傑として名のある李乾の姪ということであるし、李典もそれは少壮気鋭たる人物であろうと思っていた。
とはいえ、楽進が嬉しそうに李典の話をしているのを見る限り、見所のある人物なのは間違いないだろうが。
話に区切りがついたところで、兵士たちの様子を見やると、彼らも準備が済んだようである。
「さて、行くか!」
「わかりました」
全員が騎乗したのを確認したのち、部隊は済南を出立した。
12話:仕事を得たり
ぼうっと眺める空は薄く雲を浮かべ、ゆったりと流れていく時間を演出してくれる。
この時代に来てから7日ほど経ったか。
この七日間はあっと言う間に過ぎた。
ゆっくりとではあるが、この時代のリズムに体が順応しているのを感じている。
時計を見ずともどれくらいの時間が経過したのかを肌で分かるようになった。
標準時間がわからない今となっては腕時計やスマートフォン等、元の時代から持ち込むことになった時間がわかるツールは当てにならず、主に太陽を時刻の判断に用いるしかないのだ。
ほうと紫煙を吹き出す。
煙は中空に漂ったのちに、そよりと風に攫われて行った。
ここ数日間に聞いた情報を纏めるに、今は十中八九後漢時代である。それも三国志の始まりとも言える黄巾の乱が起こっている時代だ。漢王朝が倒れ、新たな時代に向かって進んでいく時代である。
すでに曹操というビッグネームも耳にしてしまっているし、間違いないだろう。
夢なら覚めてくれていいぞと呟いてみても、見慣れた景色には戻らない。
何より出会うもの触れるものすべてが現実的な感触を返してくる。
如何にして。
何故自分が。
自分がここに連れてこられたことに何らかの理由があるのなら、使命のようなものがあるのだろうか。
仮に使命が与えられていると仮定する。しかしその使命が何なのか知る術が無いことが問題だ。問題を提起されていないのに解を求めることなど不可能なのである。
結局のところ、現状何もできることは無いのである。
しいて言うのなら、元の時代に帰れることへの望みを捨てず、生き抜くこと。
これが至上命題だ。
ゆっくりと煙草を吸い、大いに思考の海に溺れていた稲井が3本目の煙草を吸い終わった頃、李典が屋敷の廊下を歩いているのが視界に入った。
李典も稲井に気づいたようで、同じく木蔭へと歩み寄ってきた。
「やぁ」
浮ついた感情はすっかりと落ち着いた。稲井は片手をあげて李典に挨拶をした。
李典は立ち止ると、小鼻をひくりと動かすと、眉をしかめた。
「この臭いは……あれですか」
「え。あはは」
どうやら李典は煙草の匂いと煙が嫌いらしい。
穎川からの帰還のおり、何とはなしに煙草に火をつけたところ、消すように言われてしまい泣く泣く消したのだ。
この時代では煙草は貴重などという言葉でも言い表せない。文字通り、存在していないのだから。煙草自体はあるのだろうが、嗜好品として貴重なものであろうし、紙巻き煙草などは一般的ではないだろう。
貴重すぎる一本を吸いきる前に消さなければならなかった稲井は、大変に意気消沈した。
今、も吸っている途中であったのなら消すように言われていたことだろう。
「仕事。終わったのか?」
煙草を吸いきることができたことに安堵しつつ、稲井は立ち上がった。
「はい。それでは行きましょうか」
李典は稲井の考えを汲んでくれたようで、稲井の服装に合わせた服装にしてくれている。
町娘然とした素朴な印象になってはいるが、やはり美人である。
李典は稲井を先導し、二人は屋敷の門へと連れ立って行く。
門の前に差し掛かると、厩の前で馬の世話をしている筋骨隆々の老偉丈夫が見えた。
李典の叔父の李乾である。
李乾とその息子の李整は曹操の幕下に入るために穎川での黄巾党討伐戦に赴いていたらしい。今後は曹操のもとで武官として働くことになるのだと李典からの説明があった。おそらくその為の軍備といったところだろう。
「叔父様」
李典が声を掛けると、振り向いた李乾はぎょっと目を丸くしながらも、馬に充てていた櫛を止める。
「む。おぉ、曼成ではないか。このような時間に外にいるとは、珍しいこともあったものだ」
馬もぶるると嘶いた。心なしか馬も驚いているように感じる。
「私でも日中に出歩くこともあります。第一昨日も街に出ていましたし――」
ギロリ、と鋭い視線が稲飯を貫いた。
「え。な、なんでしょう……か?」
なぜか李乾は稲井の方へと視線を移した。そこはかとなく視線に威圧感が籠っていることを感じた稲井は、蛇に睨まれたが如く硬直してしまう。
顎に皺が寄っているのは不機嫌の表れか。
李乾が口を開いた。
「稲井よ。曼成に好からぬ感情を抱きようものなら――」
「――滅相も御座いません!」
稲井は脊髄で返答をした。
堪らず背筋が伸び、居直ってしまう。
「……ならよいのだ」
鬚を蓄えた顔に、にかりと笑みを浮かべ、李乾は稲井の肩に手を置いた。
「うぐぅっ」
その途端稲井は思わず声を挙げてしまう。
稲井は自身の肩関節が擦れ、摩耗する音を聞いた。
「お、叔父様! 力を込めすぎです!」
「しまった。加減を間違えたか」
無意識に力を込めていたようで、李典の声に李乾はすぐに手を離した。
流石は武人である。一般市民たる稲井の肩を握り潰すことなど文字通り片手間らしい。
稲井は安堵の息を吐き、肩に異常がないことを確認した。
「それで、何用か。仕事でも探しておるならいくらでもあるぞ」
李乾は厩の方を見やった。
厩では兵士が数人、忙しなく働いている。その手に持っているのは馬具や遠征用の物資らしい。
李乾に返答したのは李典である。
「これから稲井殿に町の開拓、及び整備のための視察に向かうところなのです」
「ん? 仕事ってそのこと?」
「ええ。説明も兼ねるつもりです」
開拓とはどういった内容だろうか。
稲井は疑問符を浮かべたが、話の腰を折る訳にも行かず、黙って話を聞くことにした。
「期待しているぞ。留守は曼成、お前に任せる」
李乾は李典を頼もしく見つめて言った。
「精一杯務めさせていただきます」
李典は拱手の礼をとり、頭を下げた。稲井も見よう見まねではあるが礼をとった。
李乾が鉅野を離れる具体的な日程は決まっていないが、曹操側の準備が整い次第迎えが来ることになっている。いずれにせよそう遠くないうちに出立することになるだろう。
「それでは、失礼いたします」
「うむ。励めよ」
李乾と別れ、二人は屋敷の外へ出た。
先を歩く李典に付いていくと、どうやら町の外へと出るらしい。
街門を出ると、途端に人の営みは見えなくなる。
堀の上に掛けられている橋を渡ると、地面は踏み固められていない自然堆積の大地になった。
「付いてきてください」
李典はさらに先へ行く。
体感で十数分、まっすぐに歩いて行くと、小麦畑が広がった。鉅野の民が手入れをしているという畑であろう。鉅野の地に入る時に車窓から見た覚えがあった。
李典が立ち止まったことから察するに、彼女はどうやらここに連れて来たかったようだ。
まだ緑色の穂の芳しい香りを、風が運んでくる。
「どう思いますか?」
李典が言った。
「どうって?」
李典の心中が察せず、稲井の返答は社会人にあるまじきオウム返しに。
「仕事のことです。今後、大陸に波乱が巻き起こることは稲井殿が仰ったとおりでしょう。すでに黄巾賊の一揆の影響で、鉅野にも住処を失った難民が流れてきています」
「ああなるほど。食いぶちが無くなりそうだと」
町単位でエンゲル係数が上がっているようだ。つまり――
「開墾の手伝いか」
李典は神妙に頷いた。
「はい。開墾指揮を執ってください」
「指揮? そ、それはちょっといきなり重役すぎないか?」
人手が足りないから手伝えと、その程度の命が下されるものと思っていたのだが予想を軽く上回っていた。
「出来ませんか?」
「むぅ。土を掘るのは確かに慣れてるけどなぁ。俺、農業の経験はないんだよな」
「少しでも生産効率を上げたいのです。稲井殿の知識を役立ててはくれませんか」
農耕に関しての知識量は、それを専門にする人とは比べるまでもないが、歴史としてはそれなりに知っている。
となれば多少なりとも力になれることもあるかもしれない。
「わかった。色々と試してみるよ」
言うと、李典は表情を明るくした。
「お願いします。私にも手伝えることは手伝いますので」
働かざる者食うべからず。
仕事をして役に立たないことには、李家が稲井を雇っている理由がない。この時代でどこまで活躍できるかなどわからないが、できる限りの知恵は働かせてみよう。
稲井は生き延びたい。この地で果てるわけにはいかないのだ。
帰る方法が分かるまで、稲飯はがむしゃらに生きることを決めた。
そのためにはこの時代のことをよく知らなければならない。
知識と実態は得てして差異があるものである。
その後は稲井の、これから開墾していく予定地を下見してみたいという要望に応えた李典と、町の周りを歩き回っていた。
地面を見てその土を少し手にとっては、手帳に情報を書き込んでいる。
李典は墨を磨らずとも字を書ける道具に驚き、また手帳の紙の質にまた驚いていた。
その都度説明はしたつもりだが、いまいち理解していないようにも見えた。いずれ改めて説明するように言われてしまったが、それ以上の追及は遠慮してくれた。
今は仕事のために情報を集めている稲井の邪魔をするまいという李典の配慮だと思われる。
つくづく年不相応に大人びた女性であると、稲井は舌を巻く思いだ。
そしてしばらく二人で歩きまわっていると、ふと李典が口を開いた。
「あ、そうでした」
「え?」
「言おう言おうと思っていたのですが、稲井殿は私のことを姓名で呼びますね」
「え、うん」
「名をあまり呼ばれるのは恥ずかしいので、字で呼んでいただけると」
「……あ」
言われた瞬間はっとして、瞬間に恥じ入った。
古代中国において名とは神聖なものであり、軽々しく口にすることすら憚られたという。口にすることでその名を冠するものに呪いさえ与えることができると考えられていたはずだ。
「そ、そうかごめん! 名を呼ぶのは失礼になるんだったっけ」
稲井は深々と頭を下げた。
早く頭をこの時代に合わせられるようにならなければならないと痛感した。
稲井の謝罪に、気にしてはいなかったと言った李典であったが、ある疑問は浮かんだようである。
「もしかして、未来には字というものがないのですか?」
「まあ、聞いたことないなぁ。普通に姓名で呼んでる。それに、俺、中国人じゃ……いや、大陸の人間じゃなかったし」
「たしか……日本でしたか。東方と言っていましたね」
稲井は頷いた。
「時代が違えば文化が違うのでしょうし、仕方のないことかもしれませんが、これからは気をつけた方がいいと思われますよ」
現代人の身の上ではこの時代に生きる人間が、自分の名にどれほど重きを置いているかわかっていなかった。呼んだ瞬間に斬られたとしても文句は言えないことをしていたのだ。
「わかった。気を付けるよ、曼成さん」
軽率に名を呼んでしまって、気づいた時には首が地面を転がっていたなんてことになる前に教えてもらえてよかった。
曼成と、自身の字を呼ばれたことに満足したのか、李典はにこりと笑った。
それを見て稲井もまた自然と笑みを浮かべていたのであった。