6話:黄巾蜂起

小高い丘の上から見下ろした戦場は、辺り一面が赤く染まり、屍山血河を築いている。此方側へと吹いて来る風が丘を登って血の匂いを運んでくるような気さえしてくるほどだ。

 ここに大規模な陣が敷かれている。一際大きな天幕の中に、長身痩躯の男性がいた。天幕に入って来た伝令は一つ礼を執ると男へ報告する。この将軍へと礼を執るという行動は、上に従うというこの黄巾党の中に唯一ある律の現れである。

波才様。長社城に籠城する朱儁皇甫嵩軍には目立った動きは見られませんでした」
「そうか」

 報告に一言答えると波才は厭らしくほくそ笑んだ。
 
 意気揚々と我々の討伐に赴いた官軍を散々に叩きのめし、籠城に追い込んだのである。さぞかし悔しかろう、恥ずかしかろうと波才は優越感に浸り、にやつきを抑えることが出来ない。
 中郎将の二人と戦を交えて半月が経とうとしている。開戦時には人数的に優位であった官軍の勇壮とした姿は影も無く、今は小さな城壁を頼りに門を閉ざして引き籠ってしまっているのだ。
 波才が駆け付けるまでは、確かに官軍が優位に立っていた。しかしどうだ、波才が一言皆を鼓舞すると、たちまち軍は活気づき官軍を押し返してしまったのだ。

「これも波才様のお力添えのおかげでございます」
 
 そんな声が至る所から聞こえてくる。

 天公将軍を自負する、張角の教えに共感した者たちによって形作られた集団がこの黄巾党なのである。張兄弟が髪に黄色い紙を結いつけており、集まった者たちが真似をして頭に黄色い巾を巻いたことが黄巾党の名前の由来である。

「あと何日持つかな。官軍の馬鹿どもは」

 波才も黄巾党の名にもれず頭に巾を巻いているが、張角の説く太平道の教えに賛同している、というわけではない。

 ただ、大軍を動かしたいだけなのだ。
 大きな力を駒のように操り、蹂躙する。これほど愉快なことがあろうか。
 なにも波才だけがこうした考えを持って軍を率いているわけではない、大陸に立ち込める暗雲に乗って、のし上がってやろうと考えているものは多い。官職にとらわれずに軍を率いることが出来ることから、とりわけ黄巾党にはこういった手合いが多い。

「大将軍は援軍をあの哀れなやつらに援軍を寄越すつもりもないようだ。そろそろ殲滅するとしようか」
「そうですか。ついに。中朗将二人を打ち破ったとあらば、我らはさらに活気づくことでありましょう。黄天の到来はもうすぐですな!」

 本来は、宮中に巣食う宦官共が行った党錮の禁と呼ばれる弾圧被害にあった当時の士大夫や豪族達を引き込み、さらに黄巾党の勢力を拡大する腹積もりであった。だが、それが事前に露呈してしまい、こうして黄巾党の討伐軍が派遣されることとなっている。
 つまり殲滅の危機が訪れたのだ。だが、波才はむしろ喜んでいた。緊張感のある戦闘をついに経験できると、波才の血は滾っている。

 その後しばらくすると、官軍の派遣だけでは足りないと踏んだのか、この討伐軍の派遣よりも、この時勢において重要な意味を占める動きが宮中で起こった。
 意外にも宦官は馬鹿ではなかった。むしろ、なりふり構ってはいられないと言い換えられるが、党錮の禁を遂に解き豪族達の自由意思を許したのだ。これによって『漢王朝のため』という口実で豪族個人が軍を持つことが実質的に許されてしまったのである。

 軍とは即ち盾であり、矛である。
 案の定、現在は大陸全土で飛翔の時を虎視眈々と狙っている傑物が表れ始めている。

「最後だ。砦の様子を見てこい。その情報でもって総攻撃の案を立てる」
「了解しました!」

 号令を受け、兵士は命令を実行するために天幕の外へと駆けて行った。
 今は誰もが野心を持てる時勢となっているのである。兵が飛び出して行った方向をすっと見詰めながら、波才は嗤った。

 × × ×

 長社城内は重苦しい空気に侵されている。
 いたるところで布を巻いた兵士が項垂れている。誰もが声も無く布に血が滲ませ満身創痍である。この城の中には無傷の者は存在しない。負傷者を手当てするのも負傷者といった有様である。
 数日の戦闘で、兵は半数に減った。このままでは打ち破られること必至である。
 休んでいる兵士たちを見ている二人の将軍がいる。朱儁皇甫嵩である。二人の鎧もまたあちこちに傷が付いている。

「やはり、何進将軍は我々を見捨てる心算のようだな」
 と、朱儁が言った。

 朱儁は、細く切れ長の瞳に知性を感じさせる男性である。歳の頃初老に差し掛かるが、長い経験から冷静な判断のできる将軍である。その鎧に深く刻まれている傷から、彼が歴戦の勇士でもあることが窺い知れる。
 朱儁の話し相手を努めているのは皇甫嵩である。皇甫嵩は女性将軍ながらにして、若くから武芸に秀で、義に篤く、清廉な態度から評価の高い士大夫の一人である。彼女は士大夫の身でありながらも積極的に出陣し、戦場を駆けた。数々の戦闘の結果、鎧には傷やへこみが目立っている。
 さらに彼女は宮中において政治の実権を握る宦官に党錮の禁の解禁をさせ、さらには帝に陳言し、この遠征の為の軍馬を提供するように願ったほどの豪胆さを併せ持っている。
 彼ら左右中郎将の名声は、腐り始めた宮中にあって一際輝いている。

「それは初めからわかっていたことです。大将軍は我々のことなど駒の一つとしか見ていませんから」
 皇甫嵩は悲しげに呟いた。

 長社はもうもたない。これは朱儁にも、皇甫嵩にも、今更言うまでも無くわかっている事実である。

「騎都尉殿の到着はまだなのか」
「沛国へ伝令を飛ばしたのは三日前。すぐに出立してまだ三日は掛かります。現時点で一たび討ち入られたら、為す術はありません、三日も持たないでしょう」

 焦燥は募れど、打開策は出てこない。追い打ちを掛けるように、敵軍を指揮している波才という男は軍略の心得がある様で、このような機会をみすみす逃すはずがないと思われるのだ。

「陥落を待つだけか……」

 覇気も無く、朱儁にはもう開戦時の様な気勢は無くなっていた。皇甫嵩がそんな朱儁に発破をかける。

「何を弱気なことを言っておられるのですか朱儁殿。まだ負けた訳ではないではありませぬか!」
「そうは言ってもな……城壁の下を見れば、地面が見えぬほど我が軍の兵の亡骸が転がっている。残った兵士たちの士気も下がる一方だ」

 沈鬱な面持ちで朱儁は言う。どれほど強がったところで敗色濃厚であることは火を見るより明らかであると。

「何を!」

 皇甫嵩が城壁を強く叩いた。朱儁が驚いて皇甫嵩の顔を見ると、その唇は悔しそうに引き結ばれていた。

「敗色濃いこの時勢である今でこそ、我々上に立つものが弱気になってはいけないのです!」
「ではどうする」
「打って出ます」

 皇甫嵩は静かに言った。

「…………な」

 朱儁は言葉を失った。それを予期していた皇甫嵩は言葉を続ける。

「すでに細作をこの長社の周りに放っています。細作が戻ってきた後、敵軍の防御の薄い部分に全兵力をもってぶつかれば、その勢いで波才の首をとることが出来るやもしれません」

 よく磨かれた刃物にも似た、切れ長で冷涼な印象を持った皇甫嵩の瞳には、熱い決意が湛えられている。付き合いの長い朱儁には、彼女が気を違えたという訳ではないことがわかる。わかってしまうからこそ朱儁には許すことはできない。

「そのような下策を許せるわけがない! それに今の兵力では逆に踏みつぶされてしまう!」

 今度は朱儁が城壁を叩いた。
 二人の間に緊張感が漂う。
 お互いに向かい合い、言葉は発せられない。

「……あと数日持ちこたえれば、希望はあるのだ」

 絞り出すように言った朱儁の言には、希望というものがない。絶望が彼の心を折ってしまうのも時間の問題のように思える。
 人の心というものは一度傾くと、容易には立て直すことが出来ないものである。皇甫嵩は説くように愚策とも呼べるこの策の利を説明する。

「ですから打って出るのです。まだ力を残していることを敵軍に知らしめることで、向こうが我らの出方を見るようになり時間が稼げます」

 皇甫嵩は静かに、だがしっかりとした口調で言った。

「戦は正と奇、この二つが肝要です。兵の多寡は問題ではなく、いかにして相手の虚を突くかこれが兵科の理です」
「……ふむ」

 強い意志を持った皇甫嵩の言葉に、意気地を無くしていた朱儁も耳を傾け始めた。心なしか感心しているようにも見える。

「現在、波才軍は草の生える小高い丘に陣営を張っています。風に乗せて火を放つにはうってつけです。もし夜陰に乗じて火を放つことに成功すれば、賊は驚き浮足立つでしょう」
「だが風が吹かなければ、火計は成立しないぞ。これではまだ十分な策とは言えん」
「吹きます。穎川の向こうには大きな山があります。夜になって空気が冷えれば、長社城を通り越し、あの陣営へと風は吹くのです」

 春は始まったばかり、日中は温かく陽が照っているが、夜には冬が立ち戻ったかのように一気に冷え込む。確かに火計に向いた強い風が吹く為の条件は揃っている。
 朱儁皇甫嵩の瞳を見つめていた。
 再び言葉が途切れる。皇甫嵩朱儁の返答を待っていた。

「……だが無理だ」
「何故です!」

 皇甫嵩が吼えた。

「貴方はこれほどまでに臆病者だったのですか。天に仕える身でありながらなんという腰の引け様ですか!」
「……私はここで果てようが構わぬのだ。しかしお主の命が失われるのはこの先の天にとって痛手となる。死兵とならせる訳には断じていかぬ。希望を捨てぬのも良い。だが勝敗は兵家の常だ。無茶はせず、時には逃げることも考えねばならんのだよ」
朱儁殿……」
「賊が攻め込んできた時は、残った兵の半分を持ってこの城から出るのだ。奴らの気は私が引く」

 朱儁は自身が囮となり、同僚である皇甫嵩の命を助けようと言うのだ。

「あ……」

 皇甫嵩朱儁と比べるとかなり年若い。それゆえに皇甫嵩は、口にはしないまでも父のように思い慕っている。そんな朱儁に自分の命を慮る様なことを言われてしまっては、皇甫嵩にはそれ以上言葉を返すことが出来なかった。

「話はここまでだ、敗走の策を兵に気取られるなよ」

 朱儁は踵を返した。

 軍の統率者が逃げる算段を立てていることが知れれば、それこそ軍が瓦解する原因になりうる。既に脱走する者も出ているというのに、敗走の際の最低限の防御すら出来なくなってしまう。
 朱儁皇甫嵩の言葉を待たずに、物見の方へと向かっていってしまった。皇甫嵩は力なく城壁へと体重を預けた。