9話:古きを考える喜び
日は沈みかけ、山や木々、川を闇の中に隠そうとしている。雁の群れが鳴き声を上げながらシルエットを作っていた。
今、この地は戦場であった物々しさを忘れようとしていた。そんな中稲飯の目の前に立ちはだかるは偉丈夫、眼光は鋭く猫科の猛獣を思わせる。薄暗くなりだんだんと姿がぼやけて見えなくなっていくなか、その眼光だけが怪しく光り、そこにその男が立っていることを知らせていた。
そんな目が稲飯を睨みつけて…いる訳ではなく、品定めするかのように見ていた。
「……」
稲飯が李典に紹介されたのは李家の群を率いる李乾という男であった。仕官を望むという話しはすでに通したが、自己紹介くらいは自分でしろということだったのだが、いかんせん李乾の顔が恐くて緊張しっぱなしである。
「稲飯浩」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけだというのに、声が上擦る。
現在、戦の処理も終了し、李乾軍は鉅野へと帰還を始めている。この場に残っているのは少数の兵を除けば李乾と李典、そして稲飯浩のみである。
李乾は自分の隣に立っている李典に一瞥をくれると、再び稲飯に視線を向けた。元いた時代ではまず味わうことの無いであろう鋭い眼差しであった。
「李家のもとに仕官したいと言ったな。お主は李家にて何を為さんとす」
稲飯はその場に跪き、あらかじめ李典に言われた通りの台詞を口にする。
「私は浮浪の身なれど、李乾様に仕え、李家の繁栄の為に尽力いたします。つきましては、李典様の元へ文官として置いていただくことを望んでおります」
「…………」
李乾は頭を垂れる稲飯を黙って見詰めていた。形勢が悪いと考えた李典は、稲飯の斜め前に立ち、李乾に論じる。
「叔父様。しばらく話したところ、稲飯浩はこの大陸に波乱が巻き起こることを予測しており、理解しています。加えて、私の兵站を手助けするのに十分な見識を備えております。この者に李家における席を設けては下さいませんでしょうか」
出会って間もない得体の知れない男の為に頭を下げてくれる李典に、稲飯は激しく感動を覚えていた。
この感動を稲飯はすでに知っている。
自己中心的だの攻撃的だの言われている現代の中国にもこういった温かさが確かにあった。あの温かさはこの時代から続く正しき感情だ。
溺愛する姪の頼みとあれば、李乾は首を横に振ることはない。
こうして晴れて、稲飯浩は客将として李家に仕える身となった。
× × ×
穎川からの帰路。穎川にて一夜を明かし、日の出とともに稲飯はバンに乗り、先導してくれている李乾の馬の尻を追って走っている。
流石の李乾も車のエンジン音を聞いた李乾は目を丸くしていたが、姪の李典とは違い、理解できないものは『そういうものだ』と片づけてしまう性格なようで、無機物であり危害は無いということだけ理解した後はあまり突っ込んで聞いてこなかった。
こちらとしては助かるが、少々豪胆すぎやしないだろうか。そう言おうと李典を見やると、困った人でしょうとでも言いたげな顔をしていたので、稲飯も何も言わず口を噤んだ。
ぐるりと一周遠くの方まで見渡せるほどに自然が広がっている。いくら中国は地方の発展が遅れているとは言われていてもどこかしらかに人の手が付けられた跡みたいなものがあった。今走っている辺りは本当に人の手が入っていないのだろう。
悪路にハンドルが取られそうになるのを制御しながら、助手席を見る。
当たり前のように李典が座っている。
稲飯がエンジンを掛けようとキーを差し込み、何の気は無しに助手席を見ると、その時にはもうしれっと座っていて、すでにシートベルトも慣れたもので、締めていたのである。
「李乾さんと一緒に帰らなくてもいいのか?」
乗り込む前にも聞いたが、稲飯はあえてもう一度問うた。
「大丈夫です、馬は私が乗らずとも李家の厩へと帰るようしっかり訓練していますから」
答えは先程と同じである。そういう意味では無いのだが……。確かに李乾の乗っている馬から一車幅程離れた所を誰も乗っていない馬が並走している。李典の言うことに嘘や冗談はないのだろう。よって、もうこちらには李典を追いだす理由は無い。
「鉅野って言う場所に屋敷があるんだ」
「はい。山陽群の南方にある地域を鉅野と呼んでいます」
他愛無い話を交わしながら女の子とのドライブである。久しい感覚だ。李典も車に乗るのが楽しいようで、心なしか表情が年相応に見える。
「今後俺はどう行動していくのが良いんだろう。李典さんの考えを聞かせてくれないか?」
車内は密室であり、他人に話を聞かれる心配はないと言える。自分は未来から来たなどと、危ない人間扱いされてしまうようなワードを含んだ会話はこのタイミングで済ませておきたい。
「そうですね。叔父様はこれから李家を離れ曹操様に付き従うつもりのようですし、整兄さ…李整は恐らく叔父様について行くでしょう。稲飯さんは私と共に鉅野に残り、鉅野の民を統治することになります」
「と、統治? そんなの無理だって、人の上に立ったことなんてないんだ」
Resはごく小規模な会社であるために入社して三年が経った今でも稲飯が一番の下っ端であった。
よって先輩風など吹かしたこともなく、人の上に立てと言われても困惑するばかりであった。
「稲飯さんはあくまで補佐です。未来の知識が役立つこともあるかも知れませんし、この時代のことをよく知る良い機会ですよ」
「た、確かに」
李典の補足説明に稲飯が納得の声を上げると、李典はそわそわと後ろを見だした。なんだか見覚えがある挙動だ。
「どうした?」
「その、後ろの積み荷が何なのか気になってしまって……他人に話せるものでなければ詮索はしないのですが」
申し訳なさそうに言う李典を見て思わず吹き出してしまう。
「どうしました?」
「いや。好奇心旺盛だなって思ってさ」
稲飯がそう言うと、李典ははっとした表情になり、すぐに首筋まで赤くなった。
子供っぽい所を見せてしまったとでも考えているのだろうか。正直今さらだ。
別段隠すようなものでも無く、後ろの積み荷はすべて仕事用の道具である。李典の質問に、稲飯は逐一答えてやった。
「どの道具にも泥が付いていますが、もしかしてこれらは農耕用の道具なのですか?」
「もともとはね。でも俺達はこの道具を遺跡調査の為に使うんだ」
バンの後部は仕事用の道具で、人の入れるような隙間は全くない。
普段の仕事時と比べても、この荷物の量は異常である。中国の発掘チームの分の道具も一緒に積んでいるためであり、今頃どんなに迷惑をかけてしまっているか恐々とするばかりである。
「いせき、調査、ですか」
「そう。昔の人が何をしたのか知るためのね」
「昔の人。つまり私たちの様な。稲飯さんにとって過去の人間達の記録を紐解く仕事をなさっていたと?」
「なんだかむず痒いけどね」
「歴史を知ることは未来を知ることに繋がります。素晴らしいことです」
「温故知新だね」
「流石ですね。稲飯さんがその言葉を知っているということは、確かに今ある知識は未来へと受け継がれているようです」
李典は満足げに頷いた。
温故知新は、孔子の『論語』にある『子曰く、古きを温ねて、新しきを知れば、以って詩と為るべし』という言葉が語源に当たる。
今が三国志の時代の始まりと仮定すると、今いる時代が紀元後百五十年から二百年の間であり、孔子の生きた時代から五、六百年ほど経っているのではないだろうか。
五百年も過去の言葉を李典さんは知っていて、会話に織り混ぜている。その言葉を知っていて返答する自分に至っては、さらに千八百年くらい未来の人間だ。
脈々と続く時間の流れを幾世代にも渡り書に残す人や、それを未来において読み解く人がいて、歴史というものが作られているのだ。遠い過去の人に諭され、稲飯は改めて考古学に関わってよかったと実感することが出来た。
「これからさき起こる事が俺の知ってる歴史と同じとは言い切れないから、俺の知ってる歴史に付いてあまり口出しはできないけど、未来の知識をこの時代に応用することは出来るかもしれないな」
「そうですね。稲飯さんもこの時代について不明瞭な点があるかもしれませんし、疑問があれば私に聞くようお願いしますね」
「ああ、改めてよろしく」
今の状況は歴史に関わる人間としては夢にまで見るほど貴重である。
極ポジティブに考えれば、であるが。
このまま何かしら証拠を持ち帰り、論文の一つでも書きあげることができれば、一躍学会の大物へと成り上がることもできるかもしれない。
しかし、そんなことを考えたのは一瞬である。そんな考えは鼻で笑って振り払った。実際問題、一介の現代人がこの時代で余裕を持って生きることが出来るはずもない。そもそも帰れるかどうかも定かではないのだ。
たぶん生きるので精いっぱいになるはずだ。李家の人に拾ってもらったことに感謝しつつ、あまり欲をかかずに過ごすことを心がけよう。
ハンドルを握りながら、ちらりと腕時計を見る。
「もう結構走ったけど、鉅野までどれくらい走るの?」
一時間ほど走っただろうか。腕時計の時間はあてにならないが、どれだけの時間が経過したかを知る目安くらいにはなる。
バンの前方を走る李乾はずっと馬を操っていた訳である。現代人とは体のつくりからして違うのではないか。そう思わせるほどである。
「そうですね。そろそろ着く頃合いかと思います」
李典がそう言ってからさらに三十分ほど走ったあと、稲飯達は鉅野にある町に到着した。