5話:困惑と気付き
稲飯は混乱の極みにあった。
なぜ山東省へ向かう高速に乗っていたはずの自分がこんな何もない田舎へと来てしまったのか。走行中ラジオを聞いていたことは思い出せたのだがそれ以降ははっきりしないのだ。移動したときの記憶が全く無く、気付いた時には荒野の真ん中にいたのである。
わかったことと言えばこの辺りの人達の文化水準は著しく低いということである。山東省は確かに田舎では有るが、昔ながらの生活を今も続けている華族の少数民族が多く住む地域とは離れているはずだし、電気すらないというのは違和感がある。
たまたま見つけた小さな村にお邪魔するようになって、もう三日も経ってしまったが、未だに現在自分がいる場所がどこであるのか見当もつかないでいる。携帯は県外だし、PCもネットに繋がらない。お手上げ状態である。幸いなことに中国語が通じるため、国内であることは間違いないはずだが。
「私たちからも質問させてもらっても宜しいですか?」
李典と名乗った少女が自分に質問の可否を訊いてきた。ショックに力が入ら無い為バンに寄りかかったままの情けない姿でも良いならと言うと、逡巡した後、彼女は口を開いた。
「無駄を省き簡潔に答えて下さい。貴方はどこの出身ですか?」
「日本だな」
「日本とはどこにあるのですか?」
まさかそんなことも知らないとは。あり得ないことでは無いとはいえ稲飯は少し驚いた。
「……海の向こう。東の方かな」
答えると、なにやら紙束に筆を走らせていた楽進とか言った小っさい方の女の子が口を挟んだ。
「東……海の向こう。もしかして東夷の人間でしょうか」
東夷? 聞き慣れない言葉である。東という言葉が入っているのは聞き取れるし、そこまで間違った言葉ではないであろう。
「東夷ね……そんな命懸けの航路をその小さな船で渡ってきたというわけですか? 流石に無謀という他無いですよ」
李典は呆れた表情で言った。
「命懸けって……いやちょっと待て船ってこれのこと言ってるのか?」
何の冗談だろうか。李典は真面目な顔をして稲飯の後ろにあるバンを指さしているのである。
「…………」
言葉を失うとはこういう状況のことを言うのか。要するにこの少女は車すら見たことが無いということである。
蔵の中の空気が冷えたような感覚がした。
これは遭難したと言ってもいいのではないだろうか。人がいるからと安心していた気持ちが萎れてゆくのを感じた。
「わぁ。見れば見るほど本当に珍しいですね。ちょっと触ってみても良いですか?」
楽進がちょこちょことバンに近寄ってきた。稲飯は力なく「どうぞ」と答えることしかできなかった。それに続いて李典もバンに近づいた。
ペタペタと遠慮なしに車のボディを触る彼女達の眼は興味深げに輝いていた。
「な、なあ」
稲飯は李典に声を掛けた。
「はい。なんでしょう」
サイドミラーを覗きながら、李典は応答した。
「君達さ、この村の人じゃないんだろ? この辺りの大きな町に案内してくれないか」
車を出して辺りを調べようにも、現在地がわからない今の状態では、十中八九迷ってしまうため身動きが取れなかったのだ。
村の人たちは食料くらいなら分けてくれたが、あまり近づこうとすると腫れ物に触るような態度を取られてしまうのだ。
もしこの二人が案内を引き受けてくれるのなら渡りに船である。
「それは構いませんけれど。この船はどうするのですか?」
「いや、まだ走れるから大丈夫だって」
幸い現場に着いたら重機に入れる予定だった軽油が後部にいくつか乗せてある。このバンは時代遅れにもディーゼル車なので、軽油で走ってくれる。
「走るんですか!」
楽進がさらに目を輝かせた。子供のようなはしゃぎ様だ。本当にバンのことを船だと思っているようだ。
「今エンジン掛けるからちょっと待って」
稲飯は運転席に着き、挿したままになっていたキーを回した。
「ひゃぁ!」
怯えた子犬のよう声を上げたのは楽進である。突然鳴ったエンジンが掛った音に驚き、二人は尻餅を着いた。
「お、おい! 大丈夫か?」
「な、なんです急に。唸り声を上げて……もしかして生きてるのですか!」
楽進が警戒して何故か拳を構えた。恐らく取り乱しているのだろう。背後に隠れている李典は、楽進の小さな体躯に収まりきらずにはみ出てしまっている。
車を見たことが無いんだ。急にエンジン音が鳴ったら吃驚して取り乱したとしてもおかしいことは無い。
「安心しろって。走る様にしただけだから」
稲飯がそう言うと、二人は警戒しながらも運転機側の扉へと近づいてきた。
「そう言えば君たちはどこから来たんだ?」
稲飯が聞くと、二人はハッとして顔を見合わせた。何やら慌てた様子である。
「そうでした野営地へ戻らないと!」
「整兄さまはともかく、叔父様が心配して探しに来てしまうかもしれないわ」
今何か不穏な単語が聞こえた気がしたのだが……野営と言ったか?
楽進は持っていた紙束を綺麗に纏めると、李典に言った。
「私はあちらに待たせてある馬を野営地まで送りますので、曼成さんは稲飯さんを案内してください」
「わかったわ」
楽進は小動物の様な機敏さで蔵から飛び出し、村の外へと向かって駆けだして行った。
楽進を見送ると、李典はバンに向き直った。
「ここを引っ張ると開くのね」
ガチャと音を立て車のドアが開いた。運転席の。
そのうえ、李典はそのまま稲飯の上を乗り越えようとし始めた。
「運転しないんだから、反対側から乗るもんだ」
「そ、そうなの?」
きょとんと小首を傾げた彼女は、車のフロントを廻って助手席側へと回り込んだ。
女の子の体に触れたのは久しぶりだ。柔らかかったとか感想はいったん無視して、アクセルを踏んだ。
「う、動いた!」
「ちょっ、あ、危ないって!」
片腕を掴まれて引っ張られた。ハンドルは片手で操作しなんとか真っ直ぐ走行できているが、危なすぎる。
なんとか宥めることに成功し、李典は大人しくなった。助手席に座っている李典は不安そうな、居心地が悪そうな様子で膝に手を置いて竦んでいる。しかしその視線だけは興味津津にバンの中を遠慮なしに動き回っていた。
「李典さん達、もしかして普段は馬で移動してるのか?」
「ええ。そうしないと間に合わないから」
事もなげに李典は言った。さも普段から馬で移動することが多いかのようだ。この交通機関が発達した現代の中国国内で遊牧生活をしている民族がいただろうか?
他に質問をしてみてもいくつもおかしい点が見つかる。車の存在すら知らないことばかりか、中国の主要都市の名前を言っても殆ど知らないと答えが返ってくるのだ。
まるで、まだそこにそれらが存在していないかのような。それこそ別の時代に迷い込んだようなものである。
別の、時代…。
「…………」
「どうしました?」
あり得ない。あり得るはずはないのだが、乾く喉と唇から声を絞り出した。
「いまって、いつ?」
× × ×
「そんな馬鹿なことが……」
フロントガラスから見えているのは、映画のワンシーンの様な光景である。
鎧を纏った兵士らしき人達が簡素に組んだ岩でかまどを作って、いたるところで炊飯の煙が上げられている。初めは映画のロケーションかとも思ったのだがどこを見渡しても撮影機材が見当たらない。
これは本物だ。
中国勤務に当たって勉強した資料で見たことのある武器や鎧が現在進行的に使用されている。
『最高の第一資料だ……』
稲飯は中国語も忘れ母国語で呟いていた。助手席の李典が怪訝そうな表情で稲飯の様子を窺っている。
『このまま博物館に持っていったら全学芸員がひっくり返るだろうなぁ』
「何を喋っているんですか? どこの言葉です?」
「ん? あ、いやちょっとね」
慌てて中国語で話して誤魔化すと、李典は不思議そうにしながらも前を向き直ってくれた。
ハンドルを握る手に汗が滲んできた。冗談みたいな話だが自分は今、過去の中国大陸の何処かにいるようだ。思考を整理するため、煙草を吸おうと火を点けたのだが、李典はこの匂いが嫌いなようだったので今は自重することにした。
集団に近づくにつれて、集団の様子がはっきりと見えるようになってきた。馬がいるということで、驚かさないように徐行して走行していたのだが、想像を超える頭数にまたまた驚いた。
「凄い数だなぁ。何頭いるんだ?」
「官軍の騎兵と比べると少ないですが、千頭ほどいるはずです」
「おいおい……千頭って本当に映画のロケみたいな数だな」
「映画とはなんです?」
「あ、いや」
言葉に気を付けないといけないな。たとえ中国語で話していたとしても、現代でしか通じない言葉は沢山あるのだから。
稲井達の乗っている車はさらに野営地へと近づいて行く。
野営の兵たちが車を発見してぎょっとしているのが見える。なんだか物々しい雰囲気でこちらを睨んでいるやつもいる。
「心配無い! これは無害な代物だ。物見は配置に戻り、仕事の無いものは明日に備えて休んでおくように!」
李典が態々ドアを開けて前方の集団に声を張った。窓の開け方を教えるのを忘れていた。
「まだ聞きたいことがいっぱいあるんだけどさ」
「大丈夫。私も山ほど聞きたいことがあるので」