3話:李氏の才媛

兗州山陽郡の下部に位置する、鉅野という地域がある。山陽郡は袁遺が太守として治める地域である。
 あたりには平野が広がっており、付近を黄河が流れるこの地域は比較的肥沃な大地であるといえる。
鳶の鳴き声が部屋の中まで入り込んでいる。

 部屋に差し込む陽光の角度から、今がちょうど中天の刻であることが窺える。

 部屋の中にはまだあどけなさの残る少女がいた。化粧気もない彼女の白い顔にはうっすらと隈が浮かんでいる。
 両親が他界し、叔父に引き取られこの屋敷にやってきてからというもの、少女は毎日同じような一日を繰り返している。
割り当てられた部屋の文机に腰掛け、書物に目を通す毎日を過ごすようになって、幾日が過ぎただろうか。

「んぅ。首が痛い」

 眉間にあるツボを刺激し、目の疲れを取ろうと思っても、全くもって効果がない。

 名を李典。字は曼成。それが両親から授けられた彼女の名である。彼女にとっては、この名こそが両親が遺してくれた形見なのである。

 李典は、勇猛さで名を知られる李氏に連なるものとしては珍しく武勇を高めることよりも勉学を好んでいる。
 李典の愛読書は、魯国の左丘明によって注釈された『春秋』、通称『春秋左氏伝』である。この書は春秋戦国時代の歴史を、儒学の観点から纏め注釈された、儒学古典の書である。
 古きを訪ね新しきを知る。温故知新とは春秋時代儒教家、孔子の言葉であったが、その言葉の通り李典は過去の歴史にこそ、現在のこの動乱を治める為の鍵があると、そう考えているのである。

「さて、次の巻は」

 と、李典は机上に積まれていた書の山を掻き分けたが、次の巻は見当たらなかった。どうやら書庫から持ってきたものをすべて読み終えてしまったらしい。
 書物の続きを取りに、書庫へと向かおうと席を立ったところではたと気付いた。

「あ、これ持って帰らないといけないんだ」

 部屋へと持って来る時には、新たな知識の吸収に対する期待からあまり気になっていなかったが、明らかに一人で持ち運ぶのにはあまりに多い。一体どうやって持ち込んできたのか、思い出せない。非力には自信があるのだが。

 李典は書物を自室に運び入れてからというもの、ほとんど部屋を出ることも無く毎日『春秋左氏伝』を読み耽っていたのである。侍女に毎回の食事を持って来させ、珍しく外に顔を出していたかと思えば、厠へと行っていただけという徹底ぶりだ。

 引き籠ってから最初のうちは、目覚めてからすぐ机に向かって書を紐解き、夜が更けても夢中になっていたものであったが、侍女が叔父からの伝言を受け取ってきてからは、李典はそれを控えることにした。
 どのような伝言であったのか。早い話が油の節約である。
 宮中に対する反乱や一揆が大陸各地で頻発しているため、山陽群も物資が足りなくなってきているのだ。

 ふと、扉の向こうから室内に声が掛けられた。

「李典様。李乾様からの言伝が」
「わかった。入りなさい」

 今日も叔父からの伝言を受けた侍女が、李典の部屋を訪れた。招き入れると、侍女は礼をした後、言伝の内容を李典に伝えた。

「そう……。一揆の鎮圧に向かうのね」

「はい、烏合の衆とはいえ規模はなかなかのもの。策を講じることのできるものを付き添わせたいと」

 直接言いに来ればいいのに、と李典は溜息を吐いた。

 一度だけ、勉学の邪魔をするなと、扶養されている身でありながら小言を言ったことがある為か、叔父の李乾は李典が引き籠ると、部屋に近づこうとしないのだ。
 断る理由も無いと、李典は頷いた。侍女は李乾に伝える為に部屋を後にした。

 李典はすぐに李乾の元へと向かおうと考えたが、やはり机上の春秋左氏伝などの書物群が気になってしまう。
 乱雑に積まれた書物を、李典は申し訳程度に重ねて置いて、後で侍女の誰かに片づけてもらうよう頼むことにしよう。
 このように、物事に熱中するあまり部屋を汚してしまい、片づけは誰かに一任してしまう人物は往々にしているものである。李典はその悪性に気付いてはいるものの、なかなか直せずにいる。

「やっぱり、戻ってきたら自分で掃除をしましょう」
 李典は一人、決意を固めた。

 李乾はすぐに出立するつもりであろうから、厩に行けば会うことができるだろう。李典は叔父の李乾が待っているであろう厩へと向かった。

× × ×

 温まった気温の影響で、飼い葉と獣の匂いが辺りに立ち込めている。
 李典が厩に着いた時には、そこにはすでに二人が待っていた。叔父の李乾とその息子である李整だ。二人とも装備は整い、後は出発するのみといった様子である。

「おう曼成。ずいぶんと遅かったじゃないか」

 若く威勢のいい声が李典の字を呼んだ。李典の兄の李整である。若いだけにまだまだ青い所もある若武者である。

「お久しぶりです整兄様。お元気そうで」

 李典が会釈をすると、李整は呆れた様子で「久しぶりって、俺はずっと屋敷にいたんだが」と言った。

「しかし最近は整兄様の顔を見た記憶が無いのですが」

 李典は首を傾げた。頭の後ろで一つに纏めている髪が揺れた。

「それは曼成が部屋に籠ったきり出てこないからだろう」

 そう言ったのは、李整の父親であり、李典の親代わりでもある李乾だ。

 李乾は、馬の頭の位置を優に超える大男である。髪は逆立ち、その気性の荒さを物語っている。肩に抱えている槍は普通の体躯では持ち上げることもかなわないほどの重さである。

「曼成。物資の乏しい昨今。あまり夜更けまで油を使うのは駄目だ。たまには外に出て鍛練でもしたらどうだ。カビが生えてしまうぞ」
 
 窘めるように李整が言った。

「ですが叔父様。私は勉学にて研鑽を積まねばならぬのです。そうしなければ独り立ちできませぬ」

「あ、おい! 親父に言うのはずるいぞ」
 
李整は焦ったように李典を指さした。

 質実剛健で義に篤いことで知られる李乾には、弱みがある。娘同然に思っている李典に対してはとても甘いのである。

「整。曼成はこう言っておるが?」
「お、親父ぃ……」

 にべもなし。父親にこう言われてしまっては、力無い李整にはどうにもすることはできないのである。

「嗚呼、一人で暮らしたい」李整は大きな溜息を吐いた。

「一人じゃ何も出来ん馬鹿息子が。なにを言う。お前も曼成を見習い、たまには書を読んだらどうじゃ」

 呟く程度の大きさだというのに、李乾は耳聡く聞き付け厳しく言い放った。

「親父。俺に対して厳し過ぎやしない?」
「足りんくらいだ」眉間の皺と、真一文字に結ばれた口が不機嫌なことを表している。

 李整は二度目の溜息を吐いた。

「二人とも。準備が整ったならさっさと出立するぞ」

 李乾は傍らに止まらせていた馬に跨ると、二人にも騎乗するよう促した。普通の鍛え方では歩くことが出来ないほどの重さの鎧が、がちゃりと鳴った。

「私は鎧をまだ着ていないのですが」
「お前を前線に出す訳が無いだろう」
「甘やかしだろう……いや、なんでもない」

 李乾に睨まれた李整は、誤魔化すように自分の馬に乗った。
李典もそれに倣って騎乗したところで、門の向こうから厩へと近づく蹄の音が聞こえてきた。

「李乾様。出立の準備はできましたでしょうか」
「おお楽進殿。たった今出立の準備が整った所じゃ」

 李乾が好意的に振舞ったところからして、すでに顔を見知っているようである。
 楽進と呼ばれた真面目そうな女は、拳や脛などに最低限の防具のみを装備している。どうやらこの者も戦闘を行う人材らしい。しかし、あの胸の物は戦うのに不利益を生むのではないだろうか、自分は戦わないので、有ろうが無かろうが関係は無いのだが。

 李典が自分の胸元に集中している間も、楽進は真面目に話を続けていた。

「そうでしたか。でしたらすぐに穎川、長社の地へと出軍してくださいませ」
「長社だと。合流地点は小沛ではなかったのか」

 李乾が尋ねると、楽進は背筋をしゃっきりと伸ばし、はきはきとした口調で答えた。

「状況が変化したのです。黄巾賊が穎川にて蜂起し、官軍が窮地に陥っているという報に応じて、曹操様はその援軍に向かうことを決意しました」

「ほほう。それほど信用されておる。と考えてよろしいのじゃな」

 楽進は頷いた。
 曹操はまだ若く、自身の軍もそれほど大きいものは配していない。もしここで李乾が合流を取りやめると言った場合、穎川への援軍として機能しないばかりか、出来もしないことを言う不正直者として世間に認知されることになる。つまり、曹操は李乾が必ず合流するということを確信しているのだ。

「李乾様は義に篤い人物と聞き及んでおります」

楽進が言った。だがそれに答える李乾の声は低かった。

「……ふん。儂は煽てられるのは好かんぞ」
「あ、いやそのこれは……!」

楽進は先程までの理路整然とした様子からは打って変わり、おたおたと焦り出した。

「い、今の台詞はわ、私が勝手に付け足したことであって、曹躁様に言えと言われていた訳では……あう」

同じく女である李典から見たところ、先程までの楽進の態度よりも、こちらのほうが楽進の素であるような気がする。若輩者として親近感が湧いてしまうとともに、危うげで心配である。
慌てる楽進の乗っている馬も、心なしか主人に対して心配そうな感情を湛えているように見えた。

「冗談じゃ。無論、儂らは曹操殿にご助力を惜しまん」

 李乾がそう言うと、楽進は安心したのかふわりと表情を綻ばせた。

「本隊から新たに送られてきた伝令によりますと、曹躁様は翌日の日没後に合流されることを望まれているようです!」

楽進の語気にはまさしく喜びが滲んでいる。

「夜陰に乗じる算段であるな。ふむ、長社であれば、今から発てば丁度良いであろう」
「それでは出発しましょう!」

楽進は、自分が先導するからと言って町の門の方へと一直線に走り去って行った。

「さあ、李整、李典! 我らは楽進殿に随行し、曹操軍へと合流するぞ!」
「なあ曼成。親父が冗談なんていうの久しぶりに見たんだが、どう思う?」

 李乾が楽進と話す様子を遠巻きに見ていた李整が、同じく隣で見ていた李典へと話しかけた。地獄耳の父親に聞かれないよう、出来る限り馬の間隔を近づけながらだ。

「信頼されて嬉しかったのでしょう。曹躁様は聡明な方と聞きますし」
 そこまでしなくてもと内心呆れながらも、李典は律儀に思った通り答えた。

 それに対して李整は「わかってないなぁ」などと心外なことを言いながら得意げに続けた。

「それにしたって親父にしちゃあでれでれし過ぎだ。あの子が若かかったからあんなこと言いだしたんだぜきっと――うがっ」

 急に李整が唸って頭を押さて痛がりだした。騎馬と共に音も無く近づいた李乾が息子の後頭部を思い切りぶん殴ったからであった。李乾は兜を被っていたからといって威力が抑えられるような腕っ節ではない。生木で殴られたような衝撃が、李整の脳天に響き渡った。

「馬鹿なこと言っとらんで、早く軍を纏めに行かんか。置いて行くぞ!」
「整兄様。私も先に行きますね」
「ちょ、俺に全軍引っ張って行けって言うのかよ! そりゃないって!」

 李整は慌てて馬を走らせた。

 地方豪族の一人である李乾は食客数千家を集め、曹操旗下に入ることになっていた。すでに曹操の元へと出立する為、町の外に軍が敷かれている。その数、一族含め五千人。それだけの数を一人で引っ張って行けなどとは無茶な話である。

「やっぱり厳しすぎるって!」

 李整は泣きそうになりながら、先に出て行ってしまった三人を追った。

 桃の花が咲き始め温かくなってきた筈であるのに、寒風吹き荒れる厳しい冬が立ち戻ってきたかのように錯覚される。
 流石に息子一人に任せるのは不味いと考えたのか、屋敷の門を出た所に李整が待っていて、一言「精進せい」とだけ言い放って軍を敷いている町の外へと走って行った。
 李整は二の句が継げず、口角を引き攣らせながら、それに続いた。