15話:来訪-2

 稲飯と李典が開墾の監督をしているところに、思わぬ客人が現れた。
 名を戯志才と名乗る女性であった。

  × × ×

 稲飯が李典から開墾の手助けを請け負ってから、数週間の時間が経過していた。
 といっても実際に開墾作業に手を付けることができたのは、昨日からである。

 この数週間、町の農夫たちの説得に費やしてしまった。

 開墾をするにあたって稲飯が提案した牛の力を用いた土起こしの方法、牛耕は、この辺りの地域ではあまり一般的でなかったようで、受け入れられなかったのである。
 人力二人組で土を掘り起こす昔ながらの方法が良いと、新しいことはわからんと言い、稲飯の説得には耳を貸そうともしなかったのだ。
 途方に暮れかけた稲飯だったが、李典に話したところ、牛耕はすでに大陸において行われている技術であるという。
 李典が農夫たちの説得を手伝ってくれることになった。

 少し安心した稲飯であったが、李典は準備費用で少々不安があることを稲飯に伝えた。
 後漢の時代は前漢から続く重要資源の専売制が残っている。塩や鉄などがその例だ。
 不安ばかり抱えていても先には進まない。まずは鉄を手にいれなければと、李典。
 稲飯がとった行動は李乾に直談判をし、軍備に用いる鉄を分けてもらうことだった。
 李乾の眼力に肝を冷やしたが、耕作効率がどれだけ上がるか、それによりどれだけの利益を見込めるかを説いたところ、鉄を分けてもらえることになった。
 町にいる鍛冶師に試作品を作ってもらい、農夫たちを集め、やっと農夫たちの興味を引くことができたのだ。
 そして、農夫たちが牛耕の手応えを確かめている様子を遠目に気にしつつも、稲飯は李典とともに、客人である戯志才の前に座っている。

「牛を用いた土起こしを用いるのですね。この辺りではあまり用いられない方法です」

 戯志才が言った。

「はい。こちらの稲飯殿が提案してくださり、実行に移すことができました。あくまでも試験段階ではありますが」

 李典が稲飯の紹介をすると、改めて戯志才の視線が稲飯に向けられた。

「稲飯、殿ですか。聞きなれない名ですね」
「はぁ…。まあ珍しいかもしれません」

 と、お茶を濁す
 というのも、未来から来たなどという荒唐無稽なことを吹聴すると、危険視した人間から命を狙われるとも知れない。ゆえに安易に言ってはならないと李典から釘を刺されているのだ。

「今は、ただ、李家の文官として拾っていただいた恩を返すために生きている者です」

 稲飯がそう言うと、戯志才は感心したように頷いた。

「稲飯殿はなぜ牛耕をご存じで?」
「う、まあ。書物などで」
「氾勝之の書を読んだのですね。それならば納得です。稲飯殿はしっかりとした知識を持ったお方のようですね」

 まずい。氾勝之書がなんの書物なのかすら知らない。あまり長居をするとボロが出そうだ。

「で、では、俺は牛耕の様子を見てくるよ。大丈夫だよね、曼成さん」

 焦った稲飯は、戯志才の本命は自分ではなく李典であるため、場違いな自分は退席する。
 と、いうことにして席を外すことにした。

「かまいません。大丈夫ですよ」
「ふむ。それでは、あなたもしばらく席を外してください」

 李典が答えたのを見ると、戯志才は自分の御供にも席を外しているよう命令をした。
 李典が稲飯の気持ちを汲んでくれたことに感謝しつつ、逃げるようにして牛耕にはしゃぐ農夫たちのもとへと向かっていった。
 二人が居なくなったことで、話し相手はお互いに一人だけとなり、腹を割って話すこともできる、そんな状況となった。

「………」
「………」

 二人は不言のままに、その心の内を読み合っているかのように、視線を交える。
 口火を開いたのは戯志才であった。

「曼成殿。あなたの言葉でこの大陸の今を語っていただきたいのです」

 戯志才の言葉を聞き入れたはずの李典は、たっぷりと間を取ったのちに、ふうと息を吐いた。

「あのように――」

 そう呟くと、李典は視線を横へと向けた。
 それに釣られて同じように視線を向けると、何のことはない、先ほど席を外した稲飯が農夫たちと大地を耕していた。

「……黄巾の一揆が起こってしまったのは毎日の食にも事欠くような民の、鬱積した怒りが溢れた結果です」

 その瞳は優しく。そして悲しそうに見えるのだ。そして李典は淋しそうに続けた。

「流れる血を見て、忸怩たる思いを抱きました。座して学ぶことが、いずれこの大陸に役立つことに繋がると信じていました。しかし実態は、学んでいたことの何より、惨く悲惨で、火急な様をありありと私に見せました」

「………」

「私には人を率いるほどの才はありません。できることと言えば知恵を回すことだけでした。ですが、行動を起こすことなら誰でも、今すぐにでもできるということを知りました」

 李典の瞳には、稲飯が牛耕の板から転げ落ちて農夫たちに笑われている様子が映っていることだろう。戯志才の目にも、しっかりと映っていた。

「座して筆を執るだけが修学の道ではないこと。ちっぽけな一人が何かを変えることもあるということ」

 李典は視線をそらさず、ゆっくりと、自身に言い聞かせるように、続けた。

「大陸を落ち着かせることなど、今となっては現実感もなく、可能であるかどうかすらわかりません。いずれ、英傑が現れ大陸に平穏をもたらすのでしょう。しかし、今この時を生きる人々は誰にも救われる権利はないのでしょうか、そのようなことに納得はできません。私は、周りの誰かを笑顔にできる、そんな存在になりたいのです。いずれ、その笑顔が大陸に広がると信じて」

 二人の間に静寂が流れる。

 風がそよぎ髪を揺らし、空高くに雁行する雁の群れが、鳴いている。

「ありがとうございます。とても有意義な言葉をいただきました。曼成殿のような気持ちを、この大陸が少しだけ思い出せば、思いは通じるように、私も思います」

 青臭く若い考えだ。甘いと言ってしまえばそれまでだろう。
 しかし、だ。
 腐敗する大樹が根を張るこの大地に、このような土壌がいまだに存在するとは、些か驚いたものである。
 戯志才は、李乾が会わせてみたいと言った訳が分かったような気がした。

× × ×

「ふふ。李曼成、ですか。見どころのある少女ですね」

 私よりも少々若い少女でありながら、国を憂う気持ちを抱え、行動を起こせないことに悔しさを抱えている。そんな彼女が然るべき士官先を見つけることが出来れば、その思いは明確な形にすることが出来るようになるだろう。
 李典と別れ、戯志才は鉅野県を出立した。この後は、一度穎川へと戻るつもりである。ふと、故郷の様子が気になったのである。

「さて、穎川の様子を見た後は……気は進まないですが、袁本初殿の元に行ってみましょうか」

 才気煥発たる人物は各地にいる。近い将来起こるであろう戦の世に向けて、そういった人物らは皆、水面下で行動を起こしている。戯志才も、時が来れば然るべき人物の元に仕官するつもりである。それ故に力を持つ人物の元を訪れ、その考えを知る旅を続けているのである。そういった人間が袁家の人物に顔を見せるのは必然と言える。

「どこかに真の俊英あらんや」

 戯志才は呟き、その歩みを進めた。