14話:来訪
――山陽郡、鉅野県。
昨日の雨のお陰でゆっくりと体を休めることができた。雨上がりの匂いを感じつつ、私は足を進める。笠のつばを上げて空を仰ぐと、層雲を浮かべた空が太陽の光をはじけるように反射させ私の目を楽しませてくれた。
かれこれ半年になるだろうか。穎川郡から出立し、見聞を広めるために賢人英傑を訪ね、交流を結ぶ旅をしている。
私が山陽郡に入ったのは二日前になる。
「戯志才様。これから我らはどちらへ?」
後ろをついてきているのは御伴として雇った剣客である。口数は多くはないが、腕の立つ男である。
女一人での旅である。こうして腕の立つ人間を伴として連れ歩かなければ一日と持たずに荒野に屍をさらすこととなるだろう。
「そうですねぇ。袁太守の許へ顔見せをしたのちは李乾殿とお話ししてみましょう。乗氏県に向かいます」
「了解いたしました」
伴は荷を背負いなおし、再び歩みだした。
× × ×
私は太守である袁遺の元を早々に発った。
袁遺は噂に違わず器量良く、学識もまずまずの人物であったが、少々魅力に欠ける人物であった。人を引き付ける何かが足らないように感じた。
袁一族は、朝廷において四代にわたり三公を輩出した名門として有名であるが、今後乱れていくであろうこの大陸の上で、覇権を握ることのできる人物はいないであろうと見ている。
袁家は私の求めている英傑の姿ではないのだ。
「さて、次は李乾殿のもとへ向かいましょうか」
そして二日後。乗氏県にたどり着くと、肩透かしを食らう羽目となった。
李乾は李家の邸宅のある鉅野県の地にいるというのだ。
鉅野は山陽郡にあり、乗氏は済陰郡にある。隣り合っているとはいえ、移動距離としてはそれなりである。
乗氏で聞いたところによると、李乾は、最近になって各地で名を聞くようになった曹操という人物の幕下に、軍を率いて入ることになったらしい。
豪傑として名高い士大夫、李乾が認めた人物とは、曹操という人物像にも興味が湧いてきた。
まずは当初の予定通り、李乾に会って話をするために、私は鉅野県に向かった。
山林平野が目立つ景色に、小麦畑が見当たるようになった。町が近いようだ。
秋季の作物のためか、土壌を耕すための掛け声が遠くに聞こえる。
ゥモォゥ
「牛?」
若い男たちの、耕作の掛け声に交じり、牛の鳴き声のようなものが聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
「見えました、李乾殿の邸宅はあの街の中だそうですね」
「あ、はい。そのはずです」
御伴の言葉に、些細なことへの興味は薄れ、目の前の町へ興味は移った。
「さあ、向かいましょうか」
今度こそ李乾殿と論を交えることができる。
× × ×
町の住人に声をかけつつ李家の屋敷にやってきた。門の前に、明らかに常人とは懸け離れた体躯を有する偉丈夫が指揮を執っていた。
「李乾殿でございますか」
声をかけると、偉丈夫は振り返った。
「む? そうだが、貴女はいったい何某か?」
「私は、豫州は穎川郡からまいりました戯志才と申します。見識を広めるため、諸国を漫遊しております」
「ほう」
急な訪問だというのに、幾許の動揺の様子も見せない正しくの大丈夫である。
部下に作業の指示を出し、少し離れた場所で、話の場を設けてくれることになった。
「して、戯志才殿。貴方は儂に会いに来たと?」
「はい」
李乾殿は顎を撫でている。その額には深く皺が寄っている。
「どうかなさいましたか」
「儂のような武骨者に見識などという言葉が似合わんのではないかと思ってな」
「いえ。李乾殿のように、武に生きる方のお話も、智に生きる人物のお話も、等しくこの地の想いとして聞き入れたいのです」
李乾殿の目を見て率直に思っていることを話せば、彼は少々目を丸くし、眩しいものを見るように私を見た。
「儂のような老人の話もこの国の言葉として聞いてくれおるとは、なぁ」
目を細め一息つくと、李乾殿は話を続ける。しかしそれは残念なものだった。
「儂は曹の名の下に仕え、この武を振るうことを決めた。ゆえに己の考えを外に語る言は捨ててしまった」
「……」
しかし、李乾殿は好々爺然とした笑みを浮かべ、さらに続ける。
「未来を作るのは若者達だ。ゆえに、戯志才殿、儂はそなたに引き会わせてみたい者がおる」
「引き合わせてみたい者、ですか」
「うむ。たしか、今頃は町の外の開墾作業を見ているはずだな」
意外な要求を受けたものだが、私は現在風来の身である。寄り道、道草は結構なことだ。
「その方の名は?」
「李曼成。儂の姪御だ」
「姪ですか」
何と言えばいいのか。筋骨隆々の女性が槍を振り回している姿を幻視したような気がした。
「何を想像しているのかわからんが、儂とは正反対の人間じゃぞ」
「あ、いえ……あはは」
慌てて誤魔化したが、李乾殿は腕を組んだまま半眼になってしまった。
「突然の訪問にも対応していただきまして、有り難うございました」
「うむ。旅の安全を祈ろう」
李乾殿は、現在曹操が治めている済南へ向かうための準備で忙しそうなので、一人で曼成殿の元へ向かうことにした。
屋敷の外に待たせていた供を連れ、町の外へ出て曼成殿を探してみれば、すぐにそれらしい姿が見つかった。
探してみれば何と言うことはなく、先ほど響いていた牛の声がした場所であった。
男性の叫ぶ声が聞こえる。
「う、うおぉおおお」
どうやら土壌を耕しているつもりなのは理解できるが、これはいったいどういうことなのだろうか。
牛に縄を括りつけ、その縄は男性が乗っている板のようなものに括り付けられている。
手綱を握っているその顔は恐怖に歪んでいるようでいて、焦っているような風にも見える。
そして、その姿を少し離れた場所から眺めている人だかりがあった。十数人ほどだろうか、農民風の男性の集まりの中に、一人だけ若い女性が混じっている。
他にそれらしい女性は見当たらない。おそらくあれが李乾殿の言っていた曼成殿だろう。
「兄さんよぉ! だいじょーぶかぁ」
農夫の一人が板に乗った男に声をかけた。男の危機迫った表情に反して間の抜けた声に聞こえるのは気のせいだろうか。
「はは。大丈夫、大丈夫。でも、結構難しいな、これ」
男は誤魔化すように笑っていたが、見かねた農夫が手綱を受け取り、板に足をかけた。
そして難なく乗りこなしていた。
「おおっ。確かにこれは楽だべ」
農夫は感嘆の声を上げた。
それもそのはず、農夫の乗った板が通った後は見事に土が掘り起こされているのだ。
これには私も驚いた。
「くっ、流石に地力が違うんだなぁ。まだ若いつもりなんだけどな……」
男はその場で膝を抱えてしまったが、その様子を見かねたのか李典殿が慰めている様子だ。
あの二人にいろいろ聞きたいことができた。大はしゃぎの農夫たちをしり目に、私と従者は二人の元へと歩み寄った。
「え、叔父様が私を紹介したと?」
「はい」
曼成殿は目を丸くしていたが、経緯を説明すると納得したのか、歓迎してくれた。
話を聞きたいことを曼成殿に話すと、隣で小さくなっている男を同席させることを条件に頷いてくれた。
先ほどの様子から男には武術の心得はないようだし、こちらには武に覚えのある従者が控えている、私は了承し、曼成殿に促され、腰を据えて話すことのできる場所へと移動することになった。
農夫たちが耕す様子を眺められる位置に陣取り、芝の上に腰を下ろした
。
正面には李典殿、そしてその隣には声を上げていた若い男が座った。私の従者は少し後ろに控えて座っている。
私は曼成殿に向き直り礼をした。
「改めまして、名乗らせていただきます。私は戯志才。見聞を広めるため、各地を旅している身です」
「はるばるようこそ。私は李曼成。歓迎します」
知識の蓄えられた理知的な目だ。
旅は良いものだ。思わぬ出会いがある。
私はこの出会いに感謝した。