8話:力添え

 長社城にて波才軍を打ち破ることになる少々前の時間。稲飯は李典を助手席に乗せ、野営地から長社城へと向かっていた。

 全開されているバンの窓から夜の冷たい空気が吹き込んでくる。
 稲飯の車は前方に走る李乾の軍に着いて走っていた。彼らはこれから賊を討伐するためにここまで遠征して来ているらしい。

「稲井殿は何故この大陸まで来たのですか?」
「ちょっと説明できないというか……説明しても理解できないだろうなぁと思うんだけど……」
 
 稲飯は口籠った。
 舗装されていない悪路の為、稲飯は運転に集中する他無い。そのため車の揺れにも慣れた様子の李典が一方的に、稲飯に質問を投げかける形となっている。

「言ってみなければわかりません。理解出来るか出来ないかの判断は私が付けます」
「そう? じゃあ……俺、どうやらタイムスリップ、いや未来から飛ばされてきたみたいなんだけど……」
「…………」

 李典の視線が急激に可哀そうなものを見るようなものへと変貌を遂げた。

「い、いや今の無し! 聞かなかったことにして!」
「まあ良いでしょう。言い分を信用できないこともありません。これを見れば。まあ、理解は全くもって出来ませんが」

 李典はフロントボードをコツコツと叩いた。一見クールな表情に見えるが、その瞳は子供のように輝いている。

「で、いかほどの未来から?」
「ちょっとまだわからないな。この時代が一体いつなのか、わからないから」
「ふむ。今の情勢がわかれば、少しは見当がつくかもしれませんね」
「……なるほど」

 この子、もしかして凄く頭が良いのかもしれない。自分にとっても突拍子もないことだというのに冷静である。まあ、頭のおかしい奴だし適当に話を合わせておくか、という考えかもしれないが。
 しかし、このように努めて冷静な判断のできる人に、ここへ来て早いうちに出会えたのは、稲飯にとって僥倖であった。

 状況というものは常に形を変えていくものである。
 村にいた時とは違って、今の稲飯は自分の状況が危険極まりないことに気付いているのだ。頼れる人物と知り合えたのは素直に喜ばしい。

「しばらくは李家に滞在できるよう叔父様に伺いを立ててみましょう」
「ありがとう。本当に助かるよ」

 情けない気持ちもあったが、頼る者のいない稲飯には李典が女神に見えた。

「ただし、客将として迎えることになります。もちろん相応の仕事はしてもらうことになるでしょう」
「働かざる者食うべからず。当たり前だよ」

 稲飯が頷くと、そうですかと言って李典はにこりと微笑んだ。

 × × ×

 官軍と曹操軍が長社城へ侵攻してきた黄巾賊の討伐に成功してから半日が過ぎた。

 既に大方の戦の後処理は終わり、曹操軍は先行し凱旋の報告をする部隊と、残りの雑多な処理をする部隊とで分かれている。
 曹操は先程、洛陽へと報告をするために出立した。現在は治めている地が近い李乾軍が主だって、長社での作業をしている。

「ほらおめぇ、ぼさっとしてんなや。早くしねぇと帰れねぇだろう」

 汗むさい男達の威勢のいい声が方々で上がっている。

「お、おすっ!」

 男集の声に半ばビビりながらも、稲飯は走り回っていた。

 仕事を探した稲飯が選んだのは力仕事であった。仕事柄、外での仕事も多かったため、体力には密かに自信があったが、それでも現代人には堪える仕事であった。

 騎馬の突撃を防ぐ馬柵を取っ払って、それを城内へと運びこむ仕事だ。

 初めのうちはそこいらに転がる死体を見て口が酸っぱくなったが、五時間も重労働をしていれば胃袋も空っぽになり気持ち悪がっている暇も無くなっていた。

 汗で作業着の下のシャツはぐしょぐしょである。

 休憩の許しが出たため、稲飯は李乾陣営まで戻り、隅に停めてあったバンに背を預け、影の中で涼んでいる。
 何の気は無しに自分の掌を見てみる。動けば体は熱くなり、死体なんて見れば気持ち悪くなる。
 きっと、人の死に慣れることはないだろう。そんな俺がこの時代でうまくやって行けるのだろうか。

 太陽が西へと傾き始めてどれくらいたったろうか。体感ではおやつ時といったところだろうか。小腹が空いている。
 しかしこの空腹と倦怠感は、学生時代にRESでバイトをし始めた時と似た充実感も同時に感じさせてくれる。

「なかなか精が出ていますね」
「――李典さん」

 声を掛けられ見上げると、紛れも無く李典であった。逆光で見づらくもあるが、微笑んでいるのはわかった。

「よかったらどうですか?」

 李典が差し出してくれたのは団子のようなものだった。一口大に丸められた団子が笹の様な葉っぱの上にいくつか乗せられている。そのうち一つは拳ほどの大きさである。
 それを見たとたん、腹の虫が鳴いてしまった。

「いただきます」

 遠慮なく大きい方の団子を手にとって一口。あまり食べなれない味だが、うまい。
 昔話に出てくるきびだんごっていう感じだろうか。粟とか稗とかの米以外の穀物が用いられているのがわかる。塩辛く作られた団子は汗をかいた体によく染み入った。

「ああ、美味い」
「未来ではどうかわかりませんが、塩は大変貴重なのです。ちゃんと働いて下さいね」

 李典は稲飯の腰掛けている近くにあった岩に腰かけた。動きやすさを重視してか、袴の様なものを着ている。少しばかりうきうきとした様子で団子に手を伸ばし始めたあたり、小振りな方は最初から自分用に用意したものらしい。

 稲飯は夜間の戦闘中は離れた所にバンを停めて、中で大人しくしていただけで李典が何をしていたのかはわからない。
 だが稲飯はバンの中で状況を整理し、こうして仕事をしている間に気付いたことがあった。

 李典がもう一つの団子を食べ始め、一息ついたころを見計らい切り出す。

「李典さん。なんとなくだけど、この時代がどんな時代なのか見当がついたよ」
「……そうですか」

 言うべきか、言わざるべきか。未来のことを安易にこの時代の人間に話して何かが起こってしまうのではという懸念が稲飯の胸中にはあった。
 しかし、李典のこの利発そうな人となりを見るに、信用しても良いのではないかという気持ちもある。一先ずは自分の記憶の中の歴史と照らし合わせながら行動していくことにする。

「多分、ここからこの大陸は荒れに荒れる」

 稲飯は努めて簡単に言った。使った言葉はあえて漠然としており、ほとんど意味をなした言葉ではない。

「…………」

 李典はじっと稲飯の瞳を見ていた。それに対して言葉は発せず、稲飯は李典の反応を待った。

 稲飯は、仕事をしている間に李乾軍の兵士達が言っていた『黄巾』という言葉でこの時代について感づいた。この時代は後漢末期。天下を狙う人々の群雄割拠が人の心を惹きつける、あの『三国志』の元となる激動の時代である。先程の戦闘のどこかで曹操という人間が軍を率いていたと聞いて度肝を抜かれるとともに、今自分が後漢末期にいるということを確信した。

 少々の時間見つめ合っていた二人であったが、ふと、李典が口を開いた。

「未来から来た、というあなたの言葉を信じるのなら、やはりというのが私の感想です」
「やっぱり、予想はついているんだな」

 まだ出会って数時間という中ではあるが、この娘は非常に頭が切れるということが分かっている。今後大陸に起こりうることについて、予想が付いていてもおかしいことはないだろう。自分は知らないが、この娘は後に有名な人物として歴史に名を残すのかもしれない。

「李家は曹孟徳様の元で、孟徳様を天下へ押し上げる為に尽力します」

 一見してお淑やかそうな見た目に反した速さで団子を食べて終えてしまった李典が、立ちあがってそう言った。

「孟徳……あの、曹操か」
「知っているのですか?」

 稲飯は頷いた。

「凄く有名だ。それこそ海を越えて」

 映画の悪役として蜀と呉の連合軍の前に立ちはだかる乱世の姦雄曹孟徳といえば、世界的に有名である。

 李典はふっと笑い、続けた。

「稲飯さんがこの大地に降り立ったのは何か理由があるのでしょう。その理由が分かれば、元いた場所へ帰ることも出来るかもしれません」
「帰れることに越したことはないな。方法が見つかるまで、李家で手伝わせてもらうよ。この通り、戦場に出るのは御免だけど」

 稲飯の素直な言葉に李典はくすりと笑った。