13話:信賞必罰の女
城内は剣呑とした雰囲気に満ちていた。
謁見の間に白い鬚を蓄えた翁が数人、跪かされていた。彼らは悲痛な表情を浮かべ叫喚している。
「曹相様! お考え直し下さいませ!」
「我々が一体何をしたというのです! 当然の権利を行使したまで!」
官服を着た老人たちが頓首を行った。
額が石敷きにごつりと鈍い音を立てた。
「……」
謁見の間の奥に座る女性、曹操の瞳は冷たい。目の前で必死に助命を願う男たちに向ける視線は、人間に向けるそれではない。
「賄賂をとり、法を曲げ、私腹を肥やすことしか能のない官吏ごときの言に傾ける耳を私は持たないわね」
厳冬に吹き荒ぶ風のような言葉が老官吏の耳を刺した。
思わず顔を上げた官吏達の表情は土気色に染まり、瞳は動揺を隠せずに揺れていた。
「この者たちを獄にかけよ。追って沙汰とする」
曹操が非情に言を発すると、官吏の傍らにいた部下の数人が、老官吏の両腕を取り、連れ立とうとする。しばし抵抗を見せていた官吏であったが、部下に打擲されるや押し黙り、成されるがまま、引きずられていった。
官吏が謁見の間から引きずられていくのを見送ると、曹操は部下たちを払った。
謁見の間に残ったのは曹操と夏候惇の二人のみである。
曹操はほうと息を吐いた。眉間に指を当て疲れた表情を隠そうともしない。
それをみるや、曹操の傍らについていた夏候惇が眉根に皺を寄せたまま口を開いた。
「孟徳、機嫌が優れんようだな」
「そう見える?」
「ああ」
「それはそうよ。宦官どもの思惑が透けて見えるのだもの。こんな辺境に飛ばして、面倒事まである始末。まあ、面倒事の大方は今片付いたけど」
曹操が不満顔でそう言うと、夏候惇は同じ表情で鼻を鳴らした。
曹操たちは現在、済南の地にいる。済南は黄河に沿った平野部と泰山へと続く丘陵地帯に挟まれた地域を指す。
曹操は長社における黄巾賊討伐の活躍を賞され済南の相の役を受け、この地に至ったのである。
「宦官の連中、私のことがどこまでも気に入らないと見えるわ」
相という役はこの時代において郡の太守よりも上位の地位にあたる。実質的に、済南の太守として民政を司る役目を言い渡されたわけである。
この部分だけを切り取ってみれば、出世したと喜ぶこともできようが、この配属の裏には宮中に巣くう病理どもの思惑が透けている。
済南相となる以前の曹操は、頓丘の県令であったとともに都のある洛陽を守護する立場であった。宮中の宦官は、若くとも確乎不抜たる曹操が自身の地位を危ぶめる可能性を危惧し、先手を打って地方に飛ばしたと曹操は考えている。
実際、済南に巣くって暴政を働いていた官吏を曹操は許さず、就いてすぐさまその悪事を明らかにし、多くを排斥または罷免した。そのまま洛陽に置いたままならいつかは曹操の手によって私腹を肥やしていた宦官の地位は奪われていたことだろう。
「さて、これからの私たちの行動だけれども」
「まあ、頓丘の時と同じだろう。規模が少々大きくなっただけだ」
と、夏候惇は答えた。
「ま、そうね」
笑みを浮かべてそう言うと曹操は玉座の肘に頬杖をついて足を組んだ。
済南を豊かにし、曹の旗のもとに集まる人材を集め、来る時のために力を蓄える。
「洛陽に草を入れておくことも忘れないように」
「わかっている」
「そういえば、李乾はどうしたの?」
「それなら直に文謙と妙才を使いに送ることになっている」
「そう」
状況報告をした夏候惇の表情はいまいち固く、呆れているようにも見える。
李乾との面識があり、会話も交わしているということから、使いとして楽進が選ばれるのは妥当と言える。
だがしかし。
「妙才のやつ、ごねたわね」
「……はぁ。まあ、孟徳の想像通りだ」
夏候惇が楽進に李乾を連れてくるよう伝えたことを、夏候淵はどこからか聞きつけ自分も行くと駄々を捏ねたのだ。
「あやつは少々短慮に過ぎる」
「いいじゃない、新しい人材も増えてきたところだし、仕事を任せてみて割り振りを考えるいい機会だわ。新しく武官として取り立てた者に調練させてみましょう」
呆れる夏候惇を楽しそうに見ながら、曹操は言った。
「わかった、そのように手配しよう」
話が終わると、夏候惇は謁見の間から出て行った。
曹操は立ち去る夏候惇の背を見つめ、一人笑みを浮かべていた。
排斥した官吏どもが貯め込んでいた賄賂や、重税によって集められた必要以上の銭や食料は民に返還してある。すでに町に住まうものからは曹孟徳を称えよとの声が上がっている。
城下には活気があふれ始め、良政を敷いていることを聞きつけた士人賢人が士官の旨を伝えに来る。それらを多く採りたてて曹操の陣営は急激に厚みを増している。
「精々力を高めさせてもらいましょう。すぐに事が起こるだろうし、ね」
黄巾賊の一揆はいまだに各地で発生している、首謀者である張角の居場所はまだ突き止められていないということであるし、宮中内部でも怪しい動きが見え隠れしている。いよいよもって漢王朝という大樹の腐敗が露呈してきた。根元から倒れるのも時間の問題であろう。
「楽しみね」
私の歩む道に立ちはだかる傑物の登場が。
胸中に秘めるは己の固い意志。それは覇道。大陸に平定をもたらすのは自分だという確固たる自信が彼女にはあった。
「兗州は済南。私の覇道はここから始まる」
曹操は不敵に微笑んだ。
× × ×
済南城下の町の外数里の位置に、騎馬武者が十数人、出立の準備を行っていた。
中でも一人、逸る気持ちを抑えきれずにすでに騎乗している女武人がいた。武者を背に乗せている馬もやる気満々に嘶いている。
「文謙! はやく行こうぜ!」
叫んだ武人、夏候淵に走り寄って行くのは楽進である。
「はぁはぁ……妙才様。長距離の移動になりますので、糧食も持っていかなければならないのですから、もう少し辛抱してください」
荷物片手に、楽進は額に浮かぶ汗を拭いつつ、夏候淵に進言した。
町の方から数人の兵士が大荷物を担いで歩いてくるのが小さく見えている。おそらくあれらが糧食であろう。
「わかっているさ。だが、私は走りたいんだ。我儘なのはわかっているが、急いでくれ」
「妙才さま……」
綺麗な形の眉を歪めながら、楽進は肩を落とした。
「妙才様。だったら馬に糧食を積むのを手伝ってください」
「ええ……まあ、仕方ないな」
夏候淵は素直に首肯した。
二人が話しているうちに追い付いてきた兵士たちから糧食を受け取ると、皆で馬の腰に荷物を括りつけていく。
二人の背後で兵士たちが威勢よく荷造りを進めている。
作業がてら、夏候淵は楽進に話しかける。
「たしか、李乾の軍を鉅野まで迎えに行ったとき、李家の才媛と会ったって言っていたよな」
楽進は友人となってくれた女性の顔を浮かべたのか、途端に喜色満面となった。
「はい! 曼成さんです」
にへらと笑顔を浮かべ始めた楽進に少々気押された。
「李曼成か。で、どうだった?」
荷の縄を固く結びつけ、塩梅を見ながら二人の話しは続いている。
「どうとは?」
「人物像だよ。聞けば李乾の姪子だという話じゃないか」
尋ねられた楽進は作業の手を止め、顎に手をあてた。
「そうですねぇ。とてもお優しい方でした。お友達になってくれましたし」
「と、友達。お優しい……か?」
「はい!」
想像していた印象とは違ったため夏候淵は言葉を濁らせた。豪傑として名のある李乾の姪ということであるし、李典もそれは少壮気鋭たる人物であろうと思っていた。
とはいえ、楽進が嬉しそうに李典の話をしているのを見る限り、見所のある人物なのは間違いないだろうが。
話に区切りがついたところで、兵士たちの様子を見やると、彼らも準備が済んだようである。
「さて、行くか!」
「わかりました」
全員が騎乗したのを確認したのち、部隊は済南を出立した。