11話:子供くさいスモーカー


 現代において、遺跡調査員として中国の山東省の発掘調査の国外スタッフとして派遣されていた稲飯浩。

 いつものように発掘現場に向かう途中、渋滞に巻き込まれていたはずがいつの間にか後漢末期の三国志の時代へと時間跳躍をしていた。
 突如として連れてこられた見慣れぬ景色に戸惑うなか、稲飯はとある邑で李典という少女と出会い、自身が時間跳躍をしていることに気付くこととなった。
 その後、李典の取りなしによって、鉅野にある李家の屋敷に厄介になることになった。
稲井は李家の才子と謳われる、李典の部下として雇われることでとりあえずの食いぶちを確保した。李家の怒りを買うようなことがあって放逐されるようなことがない限りは安泰である。

「少しは慣れましたか?」
「早寝早起きで健康そのものだよ」

 李家が稲飯の拠点となってから三日ほど経った。
 後漢時代に飛ばされてから、一週間程度過ぎただろうか。

 今日は昼間から李典に連れられて、街の視察に訪れていた。
 視察とはいっても李家の屋敷も街の中にあるため移動時間はほとんどない。
 稲飯が早く馴染めるようにとの李典の気遣いともとれる。

 街の周りには人一人が頭まで収まる程度の堀が掘られていて、簡単な物ながら防壁を築いている。これは黄巾賊の反乱が起こったことにより民が不安を煽られたことによる打開策として、李家が民と協力して設置したものである。
 北と南に門があり、町への入り口は二ヶ所しかない。

「ここが、民が住まう区画です」

 李典が指した方には質素な服装をした老人や子供が荷物を運んだり、遊んだり、思うままに自分たちの生活を送っている。
 ふと疑問に思い若者の姿がないことを李典に尋ねると、若者たち働き手は陽の高いうちは町の外にある田畑での仕事に出ているということらしい。

「のどかで良いな。ここは」
「そうですね。それが魅力です」

 李典は微笑みを浮かべる。二人はのんびりとした足取りで街を練り歩いた。

「あら、門の前に行商が来ているわ」
「へぇ。あれが行商人か」

 街で見る服装とは違い、旅装束とでも形容しようか、特に足元はしっかりと装備が整えられていて、脛の辺りまでしっかりと固定できる履を履いている。

「商人。今日も話しを聞かせてくれるかしら?」

 李典が慣れた様子で声を掛けると、行商人はにかりと笑みを浮かべて威勢よく何か商品を買えば見返りに話すと答えた。
 服飾品や食べ物らしいものが並んでいる。現代でいうなら雑貨屋というやつだろうか。

「うぅむ。私が興味をそそられるものは無いようですね……」
「なら、俺が選んでも良いか?」

 稲飯が割り込むと、行商人はぎょっとした表情を見せた。異様な風体の男が突然口を開いたもので驚いたようである。

「出来れば目立たない服装に着替えたいんだ。俺が今持っている服は目立ちすぎる」

 今の服装は鼠色の作業着である。
 他に持っている服と言えば仕事で汗をかいた場合に着替えるために用意してあるシャツとジーンズパンツで、これまた現代的にカジュアル過ぎる。郷に入っては郷に従えというし、服装も時代に合わせるべきだろう。

 李典は稲飯を見詰め、上から下まで見た後納得したように頷いた。

「そうですね。確かに必要ですね。その珍妙な服装では無駄に目を引いてしまいますから」

 珍妙とは心外ではあるが、作業着姿では口応えが出来ないほどに悪目立ちが過ぎる。

「これなど良いのではないでしょうか」

 李典が選んでくれた服装は煌びやかの一言。良いものであることはわかる。だが、これを着て歩く自分の姿が想像出来ない意匠であった。
 さらに言えば、稲飯はこの時代の貨幣を持ち合わせていない。こんなに高価そうなものを李典のような女の子にお金を出して買ってもらうというのはなにぶん恥ずかしく思えた。

「動きやすい服装の方が良いな……今の俺は雑用係の様なものだし、庶民的なものが良いんじゃないかな」

 それならばと、商人は農民などが仕事をする際に着るような服を見繕ってくれた。高い位置に腰紐があり。裾をたくし上げることができるものだ。

「しかし……仮にも李家に仕えるのですから、それなりの恰好をして貰わなければ困ります」

 李典は不満顔である。
 どうやらさっきの服に未練があるらしい。

「だったら、初めての給金で礼服を買おうかな……買えるよね?」

 稲飯はこの時代の市場価格など、全くと言っていいほど把握していない。
 心配そうな稲飯の言葉に、指折り数えていた李典は眉をひそめて呟いた。

「切り詰めればなんとか」
「なるほど」

 爪に火を灯すような思いをしなければいけないかもしれない。購入を遅らせようかとも考えてしまう。
 稲飯はふと自分が社会人になったばかりの気持ちを思い返し少し切なくなった。
 給料が少しずつ上がっていく喜びを中途半端なところから一に戻してまた感じる羽目になるとは思いもしなかったのだ。

「どうしました? なにやら難しい顔をしていますが」

 首を傾げながら、表情を覗かれると、どきりとする。

「そんな顔してるかな。まあそろそろ腹が減ったかなぁ。そういう顔。李典さんは?」
「ええ。私もお腹が空きました。そろそろお昼にしましょうか。屋敷に戻りましょう、給仕が昼餉を作ってくれているはずです」

 庶民服を商人から受け取りながら、李典は答えた。

「わかった。――また、服買いにに来るから。その時は改めて取引させてくれ」

 行商に改めての取引の約束を取り付け、稲飯達はこの日の視察を切り上げた。

× × ×

 李典にこの時代での普段着を買ってもらった次の日の朝である。

「へぇ。いいなこれ」

 いわゆる農民服に袖を通すと、とても動きやすい。麻製なのでポリエステルなどの石油由来の肌触りに慣れているとごわごわした感じがするものの、涼しげで過ごしやすくなりそうである。着込むことで寒暖の調整をするというのはこの時代でも同じらしい。

 これでこの時代で自由に動いても目立たなくなっただろうか。
 となると好奇心がふつふつとその首をもたげてきたのを感じる。
 外を自由に歩いてみたい。
 思い至ってしまえば行動である。

 PCバッグのポケットから手帳とシャープペンシルを取り出した。カメラも一応あるにはあるが一眼レフカメラでは大きく目立ちすぎるだろうということで、残念だが持ち出すのは今回は見送ることにする。

 これから始めるのは、有意義になることが約束されていると言い切れるフィールドワークというものである。気分が高揚するというものだ。

 さすがに無断で外出してしまうのはいかがなものかと思い、稲井が李典の部屋へと向かった。
浮かれる気持ちは言葉尻から滲んでいることだろう。李典の部屋の前に立ち、ノックをした上で声をかけた。

「もしもし。李典さん」

 一拍の沈黙ののちに「稲井殿ですか、どうぞ入ってください」と返事が返ってきた。

 扉を開くと、李典は仕事中のようだった。
 机の上に積まれた竹簡の山を目の前に、筆を走らせている。

「どうかしましたか?」
「その。外出の許可がほしいんだけど」

 稲井がそう言うと、李典は筆を止めた。美麗な所作で硯に筆を置くと、李典はきょとんとした表情で稲井を見た。

「昨日も見回りには出たじゃないですか」
「いやぁ。ほら、この服で町を歩いてみたくてなー」

 袖を掴んで昨日との差異を主張すると、李典は面白いものを見た、とばかりに笑顔を見せた。

「意外と子供っぽいのですね。私よりも歳は上のように見えますのに」
「うっ――」

 李典は目を細め、微笑ましいものでも見るような視線を稲井に送っている。
 年少者にからかわれるという初めての経験をした稲井の表情は赤い。

「でも一人での外出は許可できません」

 きっぱりと李典は言った。

「な、なぜ?」
「自分の身を守れますか? 稲井殿はまだこの時代のことを何も知らないのでしょう」
「……確かにな。そう言われたら反論できない」

 穎川で目の当たりにした、血で血を洗うような命のやり取りがフラッシュバックして、膝が笑いだした。
 動揺を隠している稲井の様子に気づくことなく、李典は続けた。

「まあ、私もこの通り、鍛錬を欠かさない伯父さまや整兄さまのように武を誇っていません。しかし稲井殿よりはこの時代の渡世術を弁えています」

 加えて護身はできる程度に鍛錬も行っていると言う。反論の余地はない。李典は稲井の身を案じて諭してくれているのだ。

「――仕方ない。諦めるよ」

 稲井が言うと、李典は薄くほほ笑んだ。

「この仕事が一段落したら、稲井殿に任せることになる仕事についてお話したいと思います」

 突然話が変わり、稲井は「へ?」と間の抜けた返事をしてしまった。
 李典は話を続ける。

「今後稲井殿に任せることになる仕事の内容含め、街に出て話したいと考えていましたので、お付き合い願います」
「あ、ああ」

 外に出たいと駄々を捏ねた結果、妥協案として李典随伴での外出許可が出た、そのような状況になっていることに気づいた稲井は呆けつつも赤面した。

『落ち着きのないガキか俺は……』

 いまだに気を抜くと日本語が口から出てしまう。
 李典は興味深げにこちらを見ている。

「またのその言葉ですか。何と言ったのですか?」
「え、あいやそのだなぁ」

 稲井は頬を掻きながら視線を逸らした。
 頬が熱いな。

「ん。少ししたらまた部屋に来るよ」

 ごほんと咳を一つ。誤魔化して稲井は李典の部屋を後にした。

「――あ」

 李典が二の句を継ぐ前に、するりと部屋を抜け出た。
 気まずい思いを抱きながらも、稲井は李典の仕事が一段落するのを待つことになった。
 ばたむと扉を閉じ、ふうと息を吐いた。
 思えば、若い女の子と会話したのはいったいどれくらいぶりだろう。

 大学を卒業してから若人との交流は極端に減ったのは事実である。学芸員としての奔走の日々。そして転職。中国への派遣。言語の壁。色恋にかまけている時間などここ数年全くなかった。免疫がすっかり弱ってしまっているようだ。

 だが、心中で稲井は頷く。
 下心だのというのは現状湧いてはいない。しかし話そうとすれば言葉に詰まる。

『……思春期かよ』

 意識過剰とも言える。
 いくら大人びているとはいえ、ともすれば十も離れていそうな女子に対して湧かせる感情ではないだろう。
 端正な顔立ちに、時折見せる年相応の笑顔。しなやかな指が筆を走らせていくその所作。艶のある黒髪がさらさらと流れるその姿はとても――。

「いやいやいや!」

 自分で思っている以上に重症か。
 かぶりを振って意識を戻す。

 稲井は、図らずも他欲に目もくれずに仕事に従事していたころの、自身の生真面目さを理解した。

 こういうときは気分転換だ。

 懐に忍ばせている箱の感触を確かめると、稲井は屋敷の庭にある木陰まで行き、腰かけた。

 カチッ

 紫煙を燻らせていると、気分が落ち着いてくれる。

 カシュリカシャリ

 煙草を吸うようになってしばらくして奮発して買った銀のジッポライターの蓋を、手慰みに開閉を繰り返す。ヒンジが弛み簡単に開閉してしまうようになっているライターはさながら楽器のように金属のぶつかる心地の良い金属音を聞かせてくれる。

 稲井はよくこのように気分転換を行う。

 稲井はこのまま三本ほど煙草に火を付けることになった。

10話:壺の径は100cm強であった

 李家の屋敷は町の中心地に位置していた。

 駆動させると悪目立ちするであろうバンは、町に暮らす人々を驚かさないよう馬に引かせた。
 一見すると鉄製の白い箱が車輪に乗せられているように見える訳であり、町民の奇異の目を一手に集めていた。
 この車は時代遅れのディーゼルエンジンを積んでいるため環境には厳しすぎるし、それほど値の張る車では無かった為に複雑な心境であった。

 到着後、李家の屋敷の一室を割り当ててもらい、日常的に使うかもしれない荷物はバンから持ち出して部屋に置いた。
 割り当てられた部屋は、未来から来た稲飯にとっては身に余るほどに大きく、恐縮してしまう程であった。天蓋付きのベッドに、上で成人男性が寝転がれるほどの大きさの執務机、収納用の箪笥も置いてあり、至れり尽くせりであった。

「さて、と」

 部屋にある執務机の上にノート型PCを置いて、起動する。パスワードを入力すると、すぐにデスクトップ画面に移行した。
 デスクトップには仕事の報告書や調査計画などの雑多なファイルが並べられている。
 すでに分かり切っていることではあるが、この場所に電波は届いておらず、インターネットには繋がらない。
 だが自分が未来から来たという確証たりえるこの機械がここにあるだけでも、稲飯の心は安らいだ。

 稲飯はキーボードを叩き始めた。
 稲飯はいわゆるメモ魔と呼ばれるような性格であり、発音メモなどにもその性格が良く現れている。

「よし」

 気の済んだ稲飯はPCの電源を落とし、コンセントを探してはたと気付いた。

「そうだった。えっとどこだ?」

 コンセントなんて無いこの時代である。そもそも電気も供給されてはいないが、心配であった充電が切れるという事態は、ソーラー充電が可能な外部バッテリーを持ち歩いていたことで払拭されている。
中国大陸の至る所で発掘の仕事を承る可能性があったので、日本を発つ前に色々と準備をしていたのが幸いした。

「ふう。田舎仕事が長くて助かった」

 今のようにまともに電気の通っていない地域での仕事もあったため、助けられたこと限りない。

「これでよし、と」

 稲飯はPCと鞄から取り出した外部バッテリーを接続し、充電を開始した。
 この部屋は陽の光が十分に入る。この机の上に置いておいても、夜までには充電が完了することだろう。

 稲飯は椅子に深くもたれた。

「……」

 することが無くなった。
 手持無沙汰になった稲飯はそわそわと部屋の備品に手を触れる。
 どれもこれも、部屋にあるすべての物が千八百年後の未来では歴史的価値有りとして博物館に収蔵されるだろう。

「稲飯殿」
「……おっ!」

 突如開かれた部屋の扉と、我が上司の声で変な声を上げてしまった。
 上司は一枚布からなる着物を纏っており、外に出ていた時の服装に比べゆとりのある服装であることと、結い上げていた髪の毛も下ろしたことで艶やかに見える。
 だが今の稲飯にはその感想を述べるほどの余裕はない。

「……」
「……」

 李典と稲飯の目線が交差した。
 部屋の隅に置いてあった、腰まで届くほどの高さの壺を抱きしめている稲飯を見た李典は、見る間に表情を曇らせた。

「稲飯殿……」

 かろうじてもう一度名前を呼んだ李典だったが、稲飯にはその声色は若干の侮蔑を含んでいるように聞こえた。
 稲飯は慌てて壺から離れて弁解を試みる。

「今のは、この壺の大きさを測ってたんだ。コンベ……測量器具は車に積んだままだったからさ」
「まあ、人の嗜好に口は出しませんが」

 李典は半歩ほど後ろへ下がり、稲飯から距離を取った。
 稲飯からすれば知的欲求を晴らそうと行動していただけであるのに、あまりに無体な扱いである。

「わかってくれてないね」
「……冗談です」

 薄く笑みを浮かべた李典は、安堵している稲飯の手が届く程度の距離まで近づいてきて、稲飯と同じように壺を眺め始めた。

「この壺が珍しいのですか? 私の部屋にも同じ職人衆の作った壺が飾ってありますが」

 李典は部屋に当たり前のように置いてあった調度品に対して、初めて興味を持ったようである。
 まじまじと壺を見てはいるが、首を傾げている辺り、なにが面白いのか分かっていない様子だ。
 こういう手合いは博物館でよく見かけた。
 稲飯は素人にもわかりやすいように努めて説明を試みた。

「これはね、磁器製の壺なんだけど。磁器って言うのは、簡単に言うと粘土で作った陶器にガラス……玻璃を薄く張って水が染みない様に加工したものを言うんだ」

 玻璃という言い方のほかに瑠璃という言葉でも伝わっているようだが、瑠璃というと、現代では宝石のラピスラズリを指してしまう。
 受講者の誤解を避けることは元教育者のはしくれとして、気をつけなければいけない。
 このような心得は学芸員時代に学んだことである。稲飯は昔取った杵柄といえば聞こえが良いが、わずか二年あまりで退職した身であるため誇れそうもない心境だが。

 なにはともあれ、李典は壺に興味津津である。何を思ったか、数分前までの稲飯と同じように壺に抱きついた。

「……?」

 予想通り、なにも分からなかった様で、李典はすぐに立ち上がり、着物の裾を払った。

「どうやら私には理解できません」

 李典は壺を見ているが、関心のない人間にとって、この壺はどこまでいっても壺なのである。

「はは、書物を読む学問も面白いだろうけど、こういう技術方面の勉強も興味深いと思うよ」
「確かにそうですね。ですが李家の者は槍や剣を振るうことばかり、私にとっての学問は座学のほかにありませんでした」

 李典は淋しそうに呟いた。そして稲飯の顔を見上げて口を開く。

「ですので、稲飯さんには色々と教えていただきたいです」
「もちろん、俺に教えられることなら」
「あ、そうでした」

 ふと、李典が何かを思い出したのか手を叩いた。

「申し訳ないのですが、さっそく手を貸していただきたいのですが……」
「そんなに畏まらなくても。それに俺は君の部下なんだから」

 よく考えれば自分の上司に対してこの態度はよろしくない。現代でも免職されてもおかしくない無礼だ。ましてやこの時代では実際に首が飛びかねない。
 良いのだろうか。李典はあまり気にしていないようだが……。
 そんな稲飯の考えを余所に李典は話を続けている。

「それでは、ついてきて下さい。頼みごとがあります」

 稲飯は李典に連れられ、自室を出て移動した。連れてこられたのは李典の部屋らしい。

「これは……いったい」

 稲飯は言葉を失った。

「…………」

 李典はばつが悪そうに部屋の中から目を逸らしている。

「室内をそのままにするようにと言いつけたばかりに……思えば私一人には手の打ちようがありませんでした」

 李典の部屋は恐ろしいほどに散らかっていた。大学教授の研究室のデスクもここまでは散らかっていなかったはずだ。
 稲飯が割り当てられた部屋と、家具類は同じだった。しかし書簡竹簡が執務机に山積みである。置き場に困ったのか箪笥の上、果ては寝具の上にまで溢れ返っていた。

「どこで寝ていたんだ」
「椅子の上には何も置いていませんよ」
「腰が痛くなるよ……」

 稲飯の上司は頭が良く冷静で美人な女の子であった。
 しかしずぼらで片付けができなかった。

 片づけはスムーズに終了した。手に取るものすべてが歴史的に見て目玉が飛び出るような貴重品だ。稲飯は手汗が収まらず、幾度も掌を拭うはめになったが、なにはともあれ無事に綺麗な部屋に片付いた。

「ありがとうございます。助かりました」

 こう感謝してもらえると、協力のしがいがあるというものである。
 これを機に、書庫の資料はいくらでも読んで構わないというお墨付きももらえたし、この時代の詳しいことを考察することも容易にできるようになった。

「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」

 李典にそう告げ、稲飯は自室へと戻った。
 今日はどっぷりと疲れた。
 無言のまま寝具に腰かけ、そのまま倒れてみる。現代でよく聞くようなスプリングの軋む音は聞こえなかった。

 なぜ自分がこのような時代に来てしまったのかは定かではないが、この李家において生活していかなければならない。いずれ元の時代に帰る為にも、今日は英気を養うこととしよう。

 少し早い時間のようだが、それがいい

 

9話:古きを考える喜び

日は沈みかけ、山や木々、川を闇の中に隠そうとしている。雁の群れが鳴き声を上げながらシルエットを作っていた。

 今、この地は戦場であった物々しさを忘れようとしていた。そんな中稲飯の目の前に立ちはだかるは偉丈夫、眼光は鋭く猫科の猛獣を思わせる。薄暗くなりだんだんと姿がぼやけて見えなくなっていくなか、その眼光だけが怪しく光り、そこにその男が立っていることを知らせていた。

 そんな目が稲飯を睨みつけて…いる訳ではなく、品定めするかのように見ていた。

「……」

 稲飯が李典に紹介されたのは李家の群を率いる李乾という男であった。仕官を望むという話しはすでに通したが、自己紹介くらいは自分でしろということだったのだが、いかんせん李乾の顔が恐くて緊張しっぱなしである。

「稲飯浩」
「は、はい!」

 名前を呼ばれただけだというのに、声が上擦る。
 現在、戦の処理も終了し、李乾軍は鉅野へと帰還を始めている。この場に残っているのは少数の兵を除けば李乾と李典、そして稲飯浩のみである。

 李乾は自分の隣に立っている李典に一瞥をくれると、再び稲飯に視線を向けた。元いた時代ではまず味わうことの無いであろう鋭い眼差しであった。

「李家のもとに仕官したいと言ったな。お主は李家にて何を為さんとす」

 稲飯はその場に跪き、あらかじめ李典に言われた通りの台詞を口にする。

「私は浮浪の身なれど、李乾様に仕え、李家の繁栄の為に尽力いたします。つきましては、李典様の元へ文官として置いていただくことを望んでおります」
「…………」

 李乾は頭を垂れる稲飯を黙って見詰めていた。形勢が悪いと考えた李典は、稲飯の斜め前に立ち、李乾に論じる。

「叔父様。しばらく話したところ、稲飯浩はこの大陸に波乱が巻き起こることを予測しており、理解しています。加えて、私の兵站を手助けするのに十分な見識を備えております。この者に李家における席を設けては下さいませんでしょうか」

 出会って間もない得体の知れない男の為に頭を下げてくれる李典に、稲飯は激しく感動を覚えていた。
この感動を稲飯はすでに知っている。
 自己中心的だの攻撃的だの言われている現代の中国にもこういった温かさが確かにあった。あの温かさはこの時代から続く正しき感情だ。

 溺愛する姪の頼みとあれば、李乾は首を横に振ることはない。
 こうして晴れて、稲飯浩は客将として李家に仕える身となった。

× × ×

 穎川からの帰路。穎川にて一夜を明かし、日の出とともに稲飯はバンに乗り、先導してくれている李乾の馬の尻を追って走っている。

 流石の李乾も車のエンジン音を聞いた李乾は目を丸くしていたが、姪の李典とは違い、理解できないものは『そういうものだ』と片づけてしまう性格なようで、無機物であり危害は無いということだけ理解した後はあまり突っ込んで聞いてこなかった。

 こちらとしては助かるが、少々豪胆すぎやしないだろうか。そう言おうと李典を見やると、困った人でしょうとでも言いたげな顔をしていたので、稲飯も何も言わず口を噤んだ。

 ぐるりと一周遠くの方まで見渡せるほどに自然が広がっている。いくら中国は地方の発展が遅れているとは言われていてもどこかしらかに人の手が付けられた跡みたいなものがあった。今走っている辺りは本当に人の手が入っていないのだろう。

 悪路にハンドルが取られそうになるのを制御しながら、助手席を見る。
 当たり前のように李典が座っている。

 稲飯がエンジンを掛けようとキーを差し込み、何の気は無しに助手席を見ると、その時にはもうしれっと座っていて、すでにシートベルトも慣れたもので、締めていたのである。

「李乾さんと一緒に帰らなくてもいいのか?」

 乗り込む前にも聞いたが、稲飯はあえてもう一度問うた。

「大丈夫です、馬は私が乗らずとも李家の厩へと帰るようしっかり訓練していますから」

 答えは先程と同じである。そういう意味では無いのだが……。確かに李乾の乗っている馬から一車幅程離れた所を誰も乗っていない馬が並走している。李典の言うことに嘘や冗談はないのだろう。よって、もうこちらには李典を追いだす理由は無い。

「鉅野って言う場所に屋敷があるんだ」
「はい。山陽群の南方にある地域を鉅野と呼んでいます」

 他愛無い話を交わしながら女の子とのドライブである。久しい感覚だ。李典も車に乗るのが楽しいようで、心なしか表情が年相応に見える。

「今後俺はどう行動していくのが良いんだろう。李典さんの考えを聞かせてくれないか?」

 車内は密室であり、他人に話を聞かれる心配はないと言える。自分は未来から来たなどと、危ない人間扱いされてしまうようなワードを含んだ会話はこのタイミングで済ませておきたい。

「そうですね。叔父様はこれから李家を離れ曹操様に付き従うつもりのようですし、整兄さ…李整は恐らく叔父様について行くでしょう。稲飯さんは私と共に鉅野に残り、鉅野の民を統治することになります」
「と、統治? そんなの無理だって、人の上に立ったことなんてないんだ」

 Resはごく小規模な会社であるために入社して三年が経った今でも稲飯が一番の下っ端であった。
 よって先輩風など吹かしたこともなく、人の上に立てと言われても困惑するばかりであった。

「稲飯さんはあくまで補佐です。未来の知識が役立つこともあるかも知れませんし、この時代のことをよく知る良い機会ですよ」
「た、確かに」

 李典の補足説明に稲飯が納得の声を上げると、李典はそわそわと後ろを見だした。なんだか見覚えがある挙動だ。

「どうした?」
「その、後ろの積み荷が何なのか気になってしまって……他人に話せるものでなければ詮索はしないのですが」

 申し訳なさそうに言う李典を見て思わず吹き出してしまう。

「どうしました?」
「いや。好奇心旺盛だなって思ってさ」

 稲飯がそう言うと、李典ははっとした表情になり、すぐに首筋まで赤くなった。
 子供っぽい所を見せてしまったとでも考えているのだろうか。正直今さらだ。

 別段隠すようなものでも無く、後ろの積み荷はすべて仕事用の道具である。李典の質問に、稲飯は逐一答えてやった。

「どの道具にも泥が付いていますが、もしかしてこれらは農耕用の道具なのですか?」
「もともとはね。でも俺達はこの道具を遺跡調査の為に使うんだ」

 バンの後部は仕事用の道具で、人の入れるような隙間は全くない。
 普段の仕事時と比べても、この荷物の量は異常である。中国の発掘チームの分の道具も一緒に積んでいるためであり、今頃どんなに迷惑をかけてしまっているか恐々とするばかりである。

「いせき、調査、ですか」
「そう。昔の人が何をしたのか知るためのね」
「昔の人。つまり私たちの様な。稲飯さんにとって過去の人間達の記録を紐解く仕事をなさっていたと?」
「なんだかむず痒いけどね」
「歴史を知ることは未来を知ることに繋がります。素晴らしいことです」
「温故知新だね」
「流石ですね。稲飯さんがその言葉を知っているということは、確かに今ある知識は未来へと受け継がれているようです」

 李典は満足げに頷いた。

 温故知新は、孔子の『論語』にある『子曰く、古きを温ねて、新しきを知れば、以って詩と為るべし』という言葉が語源に当たる。

 今が三国志の時代の始まりと仮定すると、今いる時代が紀元後百五十年から二百年の間であり、孔子の生きた時代から五、六百年ほど経っているのではないだろうか。
 五百年も過去の言葉を李典さんは知っていて、会話に織り混ぜている。その言葉を知っていて返答する自分に至っては、さらに千八百年くらい未来の人間だ。
 脈々と続く時間の流れを幾世代にも渡り書に残す人や、それを未来において読み解く人がいて、歴史というものが作られているのだ。遠い過去の人に諭され、稲飯は改めて考古学に関わってよかったと実感することが出来た。

「これからさき起こる事が俺の知ってる歴史と同じとは言い切れないから、俺の知ってる歴史に付いてあまり口出しはできないけど、未来の知識をこの時代に応用することは出来るかもしれないな」
「そうですね。稲飯さんもこの時代について不明瞭な点があるかもしれませんし、疑問があれば私に聞くようお願いしますね」
「ああ、改めてよろしく」

 今の状況は歴史に関わる人間としては夢にまで見るほど貴重である。

 極ポジティブに考えれば、であるが。

 このまま何かしら証拠を持ち帰り、論文の一つでも書きあげることができれば、一躍学会の大物へと成り上がることもできるかもしれない。
 しかし、そんなことを考えたのは一瞬である。そんな考えは鼻で笑って振り払った。実際問題、一介の現代人がこの時代で余裕を持って生きることが出来るはずもない。そもそも帰れるかどうかも定かではないのだ。
 たぶん生きるので精いっぱいになるはずだ。李家の人に拾ってもらったことに感謝しつつ、あまり欲をかかずに過ごすことを心がけよう。

 ハンドルを握りながら、ちらりと腕時計を見る。

「もう結構走ったけど、鉅野までどれくらい走るの?」

 一時間ほど走っただろうか。腕時計の時間はあてにならないが、どれだけの時間が経過したかを知る目安くらいにはなる。
 バンの前方を走る李乾はずっと馬を操っていた訳である。現代人とは体のつくりからして違うのではないか。そう思わせるほどである。

「そうですね。そろそろ着く頃合いかと思います」

 李典がそう言ってからさらに三十分ほど走ったあと、稲飯達は鉅野にある町に到着した。

【ゲーム】配信をしてはや3ヶ月。だんだん慣れてきた

どうも。HELPERです。

 

みなさんは空いた時間にどのようなことをして時間を潰しますか?

 

読書、音楽、映画鑑賞、人によっては部屋でぼーっとするのが一番だっていう人もいることでしょう。

 

私はゲームをすることが多いです。

 

本を読むのも音楽を聴くことももちろん好きなのですが、最終的に一番長く手にもっているのはコントローラーだったりします。

 

引きこもり気質の私は、小さな頃から友達とゲームをするという経験が浅く、ストーリーを楽しめる作品で遊ぶことが多かった気がします。

良いストーリーのゲームは時おり思い返して無性に遊び直したくなる魔力のようなものを感じます。子供の頃にさわっていたから傷だらけのゲーム機を引っ張り出してきてたまに遊び直したりします。

 

そんななか、古くからの友人の一人が私とゲームの配信をやってみないかと持ち掛けてきました。

何度も言いますが私は下手くそです。格ゲーなんてレバーをがちゃがちゃするだけですし、FPSも狙ったところに弾は飛んでいってくれません。こんな下手くそプレイでいいのかとも思いましたが、だったら上達するまでを配信して楽しんでもらえば良いと

なかなか良いことを言われたので活動を始めました。

 

配信は私(HELPER)と、相方(Mr.gms)の二人配信として行っています。

HELPER名義の方ではまだたいして活動できていませんが、Mr.gmsとしてはもう3ヶ月ほどの期間配信をすることができています。

夜中に配信していることが多いためテンションが変に高かったり、疲れていて何言ってるかわからない時もありますが、そんなときも見に来てくれる人がいればやる気が出ますし、コメントなんて残してくれたら小躍りしてます。

最近では混ざって一緒に遊びに来てくれる人までいるくらいなので、あのとき誘いに乗ってよかったなぁって思います。

毎日が楽しいのは良いことですから。

 

配信中ではもうちょっとフランクな口調になってますけど、遊びに来てくれている人たちには感謝してますしいつも大歓迎なんです。あんまり声には出せないですけどね。恥ずかしいし。

 

よっ。なんかやってんなぁ。なんのゲームをやってんの?くらいの気軽さで遊びに来てくれたら嬉しいです。そのときは大歓迎しますよ。

 

HELPERでした。では、また。

 


#43【オーバーウォッチ】参加型 ヘルパーさんに説教されてきました 1970〜 2103〜 - YouTube

 

 

 

 

 

 

8話:力添え

 長社城にて波才軍を打ち破ることになる少々前の時間。稲飯は李典を助手席に乗せ、野営地から長社城へと向かっていた。

 全開されているバンの窓から夜の冷たい空気が吹き込んでくる。
 稲飯の車は前方に走る李乾の軍に着いて走っていた。彼らはこれから賊を討伐するためにここまで遠征して来ているらしい。

「稲井殿は何故この大陸まで来たのですか?」
「ちょっと説明できないというか……説明しても理解できないだろうなぁと思うんだけど……」
 
 稲飯は口籠った。
 舗装されていない悪路の為、稲飯は運転に集中する他無い。そのため車の揺れにも慣れた様子の李典が一方的に、稲飯に質問を投げかける形となっている。

「言ってみなければわかりません。理解出来るか出来ないかの判断は私が付けます」
「そう? じゃあ……俺、どうやらタイムスリップ、いや未来から飛ばされてきたみたいなんだけど……」
「…………」

 李典の視線が急激に可哀そうなものを見るようなものへと変貌を遂げた。

「い、いや今の無し! 聞かなかったことにして!」
「まあ良いでしょう。言い分を信用できないこともありません。これを見れば。まあ、理解は全くもって出来ませんが」

 李典はフロントボードをコツコツと叩いた。一見クールな表情に見えるが、その瞳は子供のように輝いている。

「で、いかほどの未来から?」
「ちょっとまだわからないな。この時代が一体いつなのか、わからないから」
「ふむ。今の情勢がわかれば、少しは見当がつくかもしれませんね」
「……なるほど」

 この子、もしかして凄く頭が良いのかもしれない。自分にとっても突拍子もないことだというのに冷静である。まあ、頭のおかしい奴だし適当に話を合わせておくか、という考えかもしれないが。
 しかし、このように努めて冷静な判断のできる人に、ここへ来て早いうちに出会えたのは、稲飯にとって僥倖であった。

 状況というものは常に形を変えていくものである。
 村にいた時とは違って、今の稲飯は自分の状況が危険極まりないことに気付いているのだ。頼れる人物と知り合えたのは素直に喜ばしい。

「しばらくは李家に滞在できるよう叔父様に伺いを立ててみましょう」
「ありがとう。本当に助かるよ」

 情けない気持ちもあったが、頼る者のいない稲飯には李典が女神に見えた。

「ただし、客将として迎えることになります。もちろん相応の仕事はしてもらうことになるでしょう」
「働かざる者食うべからず。当たり前だよ」

 稲飯が頷くと、そうですかと言って李典はにこりと微笑んだ。

 × × ×

 官軍と曹操軍が長社城へ侵攻してきた黄巾賊の討伐に成功してから半日が過ぎた。

 既に大方の戦の後処理は終わり、曹操軍は先行し凱旋の報告をする部隊と、残りの雑多な処理をする部隊とで分かれている。
 曹操は先程、洛陽へと報告をするために出立した。現在は治めている地が近い李乾軍が主だって、長社での作業をしている。

「ほらおめぇ、ぼさっとしてんなや。早くしねぇと帰れねぇだろう」

 汗むさい男達の威勢のいい声が方々で上がっている。

「お、おすっ!」

 男集の声に半ばビビりながらも、稲飯は走り回っていた。

 仕事を探した稲飯が選んだのは力仕事であった。仕事柄、外での仕事も多かったため、体力には密かに自信があったが、それでも現代人には堪える仕事であった。

 騎馬の突撃を防ぐ馬柵を取っ払って、それを城内へと運びこむ仕事だ。

 初めのうちはそこいらに転がる死体を見て口が酸っぱくなったが、五時間も重労働をしていれば胃袋も空っぽになり気持ち悪がっている暇も無くなっていた。

 汗で作業着の下のシャツはぐしょぐしょである。

 休憩の許しが出たため、稲飯は李乾陣営まで戻り、隅に停めてあったバンに背を預け、影の中で涼んでいる。
 何の気は無しに自分の掌を見てみる。動けば体は熱くなり、死体なんて見れば気持ち悪くなる。
 きっと、人の死に慣れることはないだろう。そんな俺がこの時代でうまくやって行けるのだろうか。

 太陽が西へと傾き始めてどれくらいたったろうか。体感ではおやつ時といったところだろうか。小腹が空いている。
 しかしこの空腹と倦怠感は、学生時代にRESでバイトをし始めた時と似た充実感も同時に感じさせてくれる。

「なかなか精が出ていますね」
「――李典さん」

 声を掛けられ見上げると、紛れも無く李典であった。逆光で見づらくもあるが、微笑んでいるのはわかった。

「よかったらどうですか?」

 李典が差し出してくれたのは団子のようなものだった。一口大に丸められた団子が笹の様な葉っぱの上にいくつか乗せられている。そのうち一つは拳ほどの大きさである。
 それを見たとたん、腹の虫が鳴いてしまった。

「いただきます」

 遠慮なく大きい方の団子を手にとって一口。あまり食べなれない味だが、うまい。
 昔話に出てくるきびだんごっていう感じだろうか。粟とか稗とかの米以外の穀物が用いられているのがわかる。塩辛く作られた団子は汗をかいた体によく染み入った。

「ああ、美味い」
「未来ではどうかわかりませんが、塩は大変貴重なのです。ちゃんと働いて下さいね」

 李典は稲飯の腰掛けている近くにあった岩に腰かけた。動きやすさを重視してか、袴の様なものを着ている。少しばかりうきうきとした様子で団子に手を伸ばし始めたあたり、小振りな方は最初から自分用に用意したものらしい。

 稲飯は夜間の戦闘中は離れた所にバンを停めて、中で大人しくしていただけで李典が何をしていたのかはわからない。
 だが稲飯はバンの中で状況を整理し、こうして仕事をしている間に気付いたことがあった。

 李典がもう一つの団子を食べ始め、一息ついたころを見計らい切り出す。

「李典さん。なんとなくだけど、この時代がどんな時代なのか見当がついたよ」
「……そうですか」

 言うべきか、言わざるべきか。未来のことを安易にこの時代の人間に話して何かが起こってしまうのではという懸念が稲飯の胸中にはあった。
 しかし、李典のこの利発そうな人となりを見るに、信用しても良いのではないかという気持ちもある。一先ずは自分の記憶の中の歴史と照らし合わせながら行動していくことにする。

「多分、ここからこの大陸は荒れに荒れる」

 稲飯は努めて簡単に言った。使った言葉はあえて漠然としており、ほとんど意味をなした言葉ではない。

「…………」

 李典はじっと稲飯の瞳を見ていた。それに対して言葉は発せず、稲飯は李典の反応を待った。

 稲飯は、仕事をしている間に李乾軍の兵士達が言っていた『黄巾』という言葉でこの時代について感づいた。この時代は後漢末期。天下を狙う人々の群雄割拠が人の心を惹きつける、あの『三国志』の元となる激動の時代である。先程の戦闘のどこかで曹操という人間が軍を率いていたと聞いて度肝を抜かれるとともに、今自分が後漢末期にいるということを確信した。

 少々の時間見つめ合っていた二人であったが、ふと、李典が口を開いた。

「未来から来た、というあなたの言葉を信じるのなら、やはりというのが私の感想です」
「やっぱり、予想はついているんだな」

 まだ出会って数時間という中ではあるが、この娘は非常に頭が切れるということが分かっている。今後大陸に起こりうることについて、予想が付いていてもおかしいことはないだろう。自分は知らないが、この娘は後に有名な人物として歴史に名を残すのかもしれない。

「李家は曹孟徳様の元で、孟徳様を天下へ押し上げる為に尽力します」

 一見してお淑やかそうな見た目に反した速さで団子を食べて終えてしまった李典が、立ちあがってそう言った。

「孟徳……あの、曹操か」
「知っているのですか?」

 稲飯は頷いた。

「凄く有名だ。それこそ海を越えて」

 映画の悪役として蜀と呉の連合軍の前に立ちはだかる乱世の姦雄曹孟徳といえば、世界的に有名である。

 李典はふっと笑い、続けた。

「稲飯さんがこの大地に降り立ったのは何か理由があるのでしょう。その理由が分かれば、元いた場所へ帰ることも出来るかもしれません」
「帰れることに越したことはないな。方法が見つかるまで、李家で手伝わせてもらうよ。この通り、戦場に出るのは御免だけど」

 稲飯の素直な言葉に李典はくすりと笑った。

7話:機を見るに敏なり

半刻後陽が沈むと、皇甫嵩は城門の上部にある矢倉の上から穎川の地を見ていた。本来ならここには数人の兵士が物見として配置されているのだが、皇甫嵩はこれに休むように言い渡し、一人で番をしているのである。

「……はぁ」

 空気はかなり冷え込んでいる。憂いを帯びた溜息が、少しだけ白くなって敵軍の陣営の方へと漂い消えた。
 少しすると、先程細作に出した二人の兵士が城へと帰って来た。兵士は気を落としている様子の皇甫嵩に気を使い、少々声を小さくし報告を始めた。

「曹将軍が北方より援軍に参られます」

 皇甫嵩は驚き聞き返した。

「なに。沛国から辿り着くには昼夜駆けても三日は掛かるはずだろう」
「それが。洛陽の周辺で遠征中の曹将軍の軍に遭遇しまして。おそらく今晩中にも到着するかと」
「こ、今晩だと」

 なんと機敏な。なんたる僥倖。

 ――ダダッダダダッ。

 面喰っていると、遠くから馬の蹄の打ち付けられる音が聞こえてきた。耳をそばだてると、確かに此方へと近づいてきているように思える。

「皇甫将軍はおられるか!」

 何やら声を上げながら、暗闇の中から走ってくる影が見えた。細作は瞬時に弓に矢をつがえ、狙いを定める。

「お、女?」

 細作が呟いた。

 城門前に何本か立ててある松明の灯により、その姿が露わになった。髪の長い、女のようである。

「何者か!」

 探りを入れるように、皇甫嵩は武者らしき格好の女へと声を掛けた。女は馬を棹立たせ止まらせると、矢倉へ向かって告げる。

「将軍に伝えよ。我々はすでに貴殿の動きに合わせる準備は整っている、とな」

 女武者は言葉だけ告げると、用は済んだとばかりに馬を反転させ、再び暗闇の中へと消えて行った。女武者の姿が見えなくなると、再び静寂が辺りを包んだ。

「あ、あの者は……」
「曹将軍だな。来てくれたか……っ」

 勝てるかもしれない。皇甫嵩は、この数日の間にすっかり忘れていた笑顔を見せた。

「よし。すぐさま動ける者を纏めよ」
「朱将軍にお伝えしますか?」
「まて……いや、私だけで動く」

 ここでもし出撃の旨を伝えたとしても、反対されるであろう。さらに怖いのは、朱儁皇甫嵩のかわりに突撃を掛けると言い出すことだ。そうなれば、朱儁は死兵となって道を切り拓こうとするだろう。
 これ以上朱儁に不甲斐ない所は見せることが出来ないと、皇甫嵩は覚悟を決めた。

「頼む。私に着いて来てくれ」

長社城陣営はすぐさま反撃の為の準備を始めた。

× × ×

 森の木々に紛れ、曹操達は息を潜めている。長社城を挟んだ前方に、黄巾賊の陣営が見えている。
 不敵に笑みを浮かべながら、戦場を見つめていた曹操の背後に、親友が帰還した。
 夏侯惇曹操に並ぶようにして戦場を見つめる。

「ちゃんと伝えてくれたかしら?」
「まあ。伝わっているだろう」

 単身、伝令として長社城へと向かっていた夏侯惇は憮然として答えた。
 相変わらず無愛想だと、曹操は笑った。

「そう。だったらしばらくすれば動きがあるはずね。李乾の到着はどれほどになるのかしら」
「夜明けまでには辿り着くはずだ……しかし孟徳よ。このような急ごしらえの策で本当に黄巾賊を打ち破れるのか」

 李乾が合流した所で、曹操の軍は六千。対して黄巾賊はまだ二万ほどの勢力を保っているし、時間と共に合流して大きくなっている。奇策を用いて作戦を行うとしても、この人数では少々心許ない。

皇甫嵩の策によるわね。恐らく火計になるでしょう」
「火計か。荒れるな」

 戦闘の予感に、夏侯惇が腰に佩く太刀を握ると、鍔が鳴った。普段からきつい目付きがさらに鋭くなる。

「でしょうね。だからこそ、統率のとれた此方に有利」

 曹操は言った。

 賊の団結などというものは、いざとなれば脆いものだ。
 長社城からも突撃を掛けるとなれば、賊の前後を叩くことが出来る。この方法ならさらに賊を浮足立たせることが出来るだろう。

 夏侯惇は振り返り、待機している兵達に号令を掛ける。

「長社城の動きに合わせ、我々も突撃を掛ける。総員、準備を怠るな」

 兵達は無言で頷いた。

× × ×

波才将軍。お伝えします。長社城内部にはほとんど戦える兵力は残っていないと思われます。兵力は我々の半分にも満たないかと」

 長社城の様子を窺わせていた兵士の一人が、報告を済ませた。兵士の報告を聞いた波才は、つまらなそうな顔をしていた。

「一万を下回るか……つまらんな」

 宮中の精鋭ともあろう中郎将が不甲斐ないことだ。思っていたよりも開いていた兵力差に、波才は吐き捨てるようにして鼻で笑った。

「一刻の後、総攻撃を仕掛けるぞ。やつらに思い知らせてやる」

 礼を済ませると、兵士は天幕の外へと出て行った。

 黄巾党の蜂起はこの豫州のほかに、幽州と荊州でも起こっているはずである。幽州蜂起は程遠志とかいう男が率いて起こしたと情報がある。幽州へ派遣された官軍は誰が率いていたであろうか。誰が率いていたとしても、程遠志軍は波才軍よりも巨大な勢力だ。まず打ち破られることはないだろう。そして荊州では張曼成が蜂起する手筈になっている。

 大陸を分断するかのように巨大な一揆が起こることにより、漢王朝は転覆すること必至である。
 報告では、どの軍もまだ官軍との戦闘には決着は付いていないという話である。
 自身の腕を知らしめ、大陸で初めに鬨の声を上げてやろうと、波才は武具の準備を始めた。

 その時、転がる様にして天幕の中に部下が走りこんできた。

「何事か!」

 波才は声を荒げるが、居住まいを正すこともできず、部下は汗まみれの顔で告げた。

「襲撃です。皇甫嵩が正面切って突撃を仕掛けてきました」
「何だと!」

× × ×

 静寂を打ち破る地鳴りが長社を響き渡る。

「進めぇ! 天意は我らにあり。今こそ逆賊を打ち滅ぼすのだ! 天に仇為す逆賊を焼き尽くせぇ!」

 舞う炎の灯りに反射する、手入れの行き届いた刃が闇夜に煌めいている。

 皇甫嵩はまだ動ける兵士を掻き集め、三千の兵に突撃命令を出したのだ。兵士たちは雄叫びを上げ、暗がりに浮かぶ敵陣へと向かっていく。伍長が松明を持ち、班を先導していく。皇甫嵩の計略により、長社に火が放たれ、穎川からの風に乗り一気に辺りに広がった。

「か、か官軍だぁー」

 火の波が丘を登ってくる様子を目の当たりにした黄巾賊は泡を食って慌てた。

「官軍が突っ込んできやがった!」

 まともな軍律もない黄巾賊の指揮系統では急な反撃にまともな指示を出せないばかりか、勝手に酒盛りを始めて酩酊状態の者までいた。官軍の兵士たちは黄巾を目印に、目に入った賊を片っ端から切り捨てて行く。

 見る間に黄巾の陣営は火の海に包まれた。
 黄巾賊の血の匂いが、火焔の熱風に煽られ吹き荒れる。

「賊共に殺された仲間の恨みを晴らせ!」

 皇甫嵩は陣営に突撃し、一直線に波才目掛けて突っ込んでいく。

 こうして穎川は再び戦火に包まれることになった。だがその形勢は逆転し、今度は官軍が主導権を握ることとなった。
 至る所で剣が肉を割く音が聞こえ、それに合わせて叫び声が響く。ろくな反撃もできず、逆賊は討ち取られていく。

「うわぁっっ」
「殺さないでくれぇ」

 皇甫嵩は命乞いなどに聞く耳を持たないとばかりに、泣きわめく黄巾を被った頭を地面に転がしていく。
 逃げ惑う黄巾賊によって蹴倒された松明が天幕に引火し、さらに火の手が広がっていく。

「押せ押せぇ! 退くことはまかりならんぞ!」

 皇甫嵩が檄を飛ばし、それに応えるように彼女の部下たちは勇猛を奮い敵陣に雪崩れ込んで行く。

「し死んでたまるか、俺ぁ逃げるぞ!」

 ついに一部の黄巾賊が撤退を始めた。仲間の危機などお構いなしである。そもそも仲間と思っていたかも知れたものではないが。遂に波才軍は瓦解し、後退を始めた。

「あら。一体どこに逃げようなどと思っているのかしらね」

「――な」

 首元に刃を当てられたような怖気に、賊は竦み立ち止まる。
 賊が官軍から逃げようと後ろを向くと、そこには先程までは影も無かった騎兵が陣を組んで突撃の構えをしているのだ。あるものは腰を抜かし、あるものは前後不覚に陥った。

 そんな様子を、曹操は静かに見つめていた。曹操は背後に見える月に照らされながら前方に手を挙げ、静かに告げた。

「――突撃」

 すっとその手が下ろされる。

『オオォォッ!』

 騎兵隊は穎川に広がる火焔の灯りを頼りに、突撃をする。

 腰を抜かしていた黄巾賊は戦馬によって蹴倒され、踏みつけられ肉の塊になっていく。そうして攪乱され、陣の外側へと広がって行った賊は、陣を囲うように待ち構えていた李乾軍によって殲滅される。

 戦況は完全に官軍側の優勢となった。

「そ、曹旗だと。騎都尉の曹操か……っ。なんでそんな奴が出張って来たんだ」

 混乱に乗じていち早く激戦区を抜け出していた波才は歯を軋ませていた。
 曹操と言えば、放蕩三昧で手のつけられない宦官の孫娘だったはず。そんな女がなぜこのような場所に沸いて現れた?

「畜生!」

 気にもしていなかった馬鹿女にしてやられたということか。

 波才は行き場のない怒りを罵倒として吐き出し続けた。だが立ち止まっていては自分の首を狙う輩が集まってくるだろう。波才はわずかな手勢を連れ、走り続けた。

× × ×

波才はどこだ!」

 一際大きな天幕の中を確認した皇甫嵩は、もぬけの殻になっていた中を見て気付いた。

「逃げたか!」
皇甫嵩将軍! あちらの方へ手勢を連れ逃げ去ったものがいると!」

 ちょうどよく部下が来てくれた。報告を聞くと、返事もせずに天幕を飛び出した。
 皇甫嵩は天幕を飛び出た。天幕の前には煤けた鎧の武者が立っていた。

 朱儁である。

「無茶をするなと言っただろう!」
「――っ」

 鋭い剣幕に皇甫嵩は息を飲んだ。
 朱儁皇甫嵩の勝手な行動を叱咤しているのである。再び叱責が飛んでくるかと、皇甫嵩は身構えたが、予想に反して朱儁は睨みつけていたその瞳を細めた。

「……まったく。あとは私に任せなさい。お前は波才を追うのだ」

 朱儁皇甫嵩の馬を連れていた。朱儁が馬の背を叩くと、馬は任せろとばかりに嘶いた。

「……わかりましたっ!」

 皇甫嵩は馬に跨ると、部下の報告のあった方向へと走って行った。

「さて――最早決着はついた! 戦意の無くなった者に刃を向けることは許さぬぞ!」

 朱儁が声を張り上げた。

 残る黄巾賊はすでに抗う程の士気は無い。
 陽が昇る頃に、この長社・穎川の地に官軍勢力による鬨の声が上がった。

× × ×

 朝を迎えた戦場からはまだ煙が上がっている。兵士たちは朱儁曹操の命令で火に土を掛けて鎮火させて回っている。

「報告します。皇甫嵩将軍が見事に波才の首を挙げました」
「そうか」

 朱儁は頷いた。そして、隣で報告を聞いていた騎都尉将軍の方へ向き直る。

皇甫嵩と通じていたようだな」
「ええ。どこかの右中郎よりも行動力が有りそうだったのでね」
「……ふん。成功したから良いものの。危うく人材を失う所であったぞ」
「機を見て敏に動いたからこそ、被害は少なく済んだ。と見るべきでしょう」

 朱儁曹操の言葉に応えて反論することはせず、眉間に皺を寄せた。確かに結果だけを見るのならば、風が吹いた時点で突撃を掛けたからこそ波才軍を打ち破ることができたとも見られよう。
 とは言え、結果として黄巾賊を討伐できたことには変わりないので、朱儁はこれ以上の非難はしなかった。彼は皇甫嵩にも叱責を与えることは無いだろう。

「まあ、教え子の成長が見られるのは嬉しいものであるがな」

 朱儁は苦笑した。

朱儁将軍は都へと戻られるのかしら?」
「ああ。すぐに戻る。恐らく、戻ったとしても、すぐに出撃命令があるだろう」

 この地の一揆は鎮圧に成功したが、未だに首謀者である張角の首を挙げていないのが現状である。各地の黄巾勢力は肥大を続けている。
 戦が続けば兵の士気は下がり、脱走する兵も出てくるだろう。都に巣くう者どもは、その辺りのことも考えることもせずに無理な命令を続けるのだ。

「それならば、ここの後始末は私に任せてもらって構わないわ」

 曹操は戦の処理を自身が請け負うと提案した。すこし驚いた様子の朱儁であったが、曹操の考えが理解出来たようで、頷いた。

「……ならば。兵を纏めろ! 洛陽へと帰還する」

 朱儁は兵たちを纏め、帰る支度を始めた。

 後始末を曹操が請け負ったのは、この援軍がそうであったように、名を売るためである。
 騎都尉将軍という、軍を持つ立場にありながら曹操はほとんど戦場へは出ていない。大宦官を祖父に持つ曹操は、権力者に煙たがられているのである。
 大義名分を得て戦地に赴く機会は少ないが、こうして戦の後始末を肩代わりしてやったことで、官軍の兵士たちは曹操に良い印象を持つことだろう。兵士たちは大抵農民である、今はこういった些細なことで民の評判を上げることが重要であることを曹操は理解しているのである。

「さあ。私たちは戦の始末をつけるぞ!」

 曹操は兵士たちに発破をかけた。

6話:黄巾蜂起

小高い丘の上から見下ろした戦場は、辺り一面が赤く染まり、屍山血河を築いている。此方側へと吹いて来る風が丘を登って血の匂いを運んでくるような気さえしてくるほどだ。

 ここに大規模な陣が敷かれている。一際大きな天幕の中に、長身痩躯の男性がいた。天幕に入って来た伝令は一つ礼を執ると男へ報告する。この将軍へと礼を執るという行動は、上に従うというこの黄巾党の中に唯一ある律の現れである。

波才様。長社城に籠城する朱儁皇甫嵩軍には目立った動きは見られませんでした」
「そうか」

 報告に一言答えると波才は厭らしくほくそ笑んだ。
 
 意気揚々と我々の討伐に赴いた官軍を散々に叩きのめし、籠城に追い込んだのである。さぞかし悔しかろう、恥ずかしかろうと波才は優越感に浸り、にやつきを抑えることが出来ない。
 中郎将の二人と戦を交えて半月が経とうとしている。開戦時には人数的に優位であった官軍の勇壮とした姿は影も無く、今は小さな城壁を頼りに門を閉ざして引き籠ってしまっているのだ。
 波才が駆け付けるまでは、確かに官軍が優位に立っていた。しかしどうだ、波才が一言皆を鼓舞すると、たちまち軍は活気づき官軍を押し返してしまったのだ。

「これも波才様のお力添えのおかげでございます」
 
 そんな声が至る所から聞こえてくる。

 天公将軍を自負する、張角の教えに共感した者たちによって形作られた集団がこの黄巾党なのである。張兄弟が髪に黄色い紙を結いつけており、集まった者たちが真似をして頭に黄色い巾を巻いたことが黄巾党の名前の由来である。

「あと何日持つかな。官軍の馬鹿どもは」

 波才も黄巾党の名にもれず頭に巾を巻いているが、張角の説く太平道の教えに賛同している、というわけではない。

 ただ、大軍を動かしたいだけなのだ。
 大きな力を駒のように操り、蹂躙する。これほど愉快なことがあろうか。
 なにも波才だけがこうした考えを持って軍を率いているわけではない、大陸に立ち込める暗雲に乗って、のし上がってやろうと考えているものは多い。官職にとらわれずに軍を率いることが出来ることから、とりわけ黄巾党にはこういった手合いが多い。

「大将軍は援軍をあの哀れなやつらに援軍を寄越すつもりもないようだ。そろそろ殲滅するとしようか」
「そうですか。ついに。中朗将二人を打ち破ったとあらば、我らはさらに活気づくことでありましょう。黄天の到来はもうすぐですな!」

 本来は、宮中に巣食う宦官共が行った党錮の禁と呼ばれる弾圧被害にあった当時の士大夫や豪族達を引き込み、さらに黄巾党の勢力を拡大する腹積もりであった。だが、それが事前に露呈してしまい、こうして黄巾党の討伐軍が派遣されることとなっている。
 つまり殲滅の危機が訪れたのだ。だが、波才はむしろ喜んでいた。緊張感のある戦闘をついに経験できると、波才の血は滾っている。

 その後しばらくすると、官軍の派遣だけでは足りないと踏んだのか、この討伐軍の派遣よりも、この時勢において重要な意味を占める動きが宮中で起こった。
 意外にも宦官は馬鹿ではなかった。むしろ、なりふり構ってはいられないと言い換えられるが、党錮の禁を遂に解き豪族達の自由意思を許したのだ。これによって『漢王朝のため』という口実で豪族個人が軍を持つことが実質的に許されてしまったのである。

 軍とは即ち盾であり、矛である。
 案の定、現在は大陸全土で飛翔の時を虎視眈々と狙っている傑物が表れ始めている。

「最後だ。砦の様子を見てこい。その情報でもって総攻撃の案を立てる」
「了解しました!」

 号令を受け、兵士は命令を実行するために天幕の外へと駆けて行った。
 今は誰もが野心を持てる時勢となっているのである。兵が飛び出して行った方向をすっと見詰めながら、波才は嗤った。

 × × ×

 長社城内は重苦しい空気に侵されている。
 いたるところで布を巻いた兵士が項垂れている。誰もが声も無く布に血が滲ませ満身創痍である。この城の中には無傷の者は存在しない。負傷者を手当てするのも負傷者といった有様である。
 数日の戦闘で、兵は半数に減った。このままでは打ち破られること必至である。
 休んでいる兵士たちを見ている二人の将軍がいる。朱儁皇甫嵩である。二人の鎧もまたあちこちに傷が付いている。

「やはり、何進将軍は我々を見捨てる心算のようだな」
 と、朱儁が言った。

 朱儁は、細く切れ長の瞳に知性を感じさせる男性である。歳の頃初老に差し掛かるが、長い経験から冷静な判断のできる将軍である。その鎧に深く刻まれている傷から、彼が歴戦の勇士でもあることが窺い知れる。
 朱儁の話し相手を努めているのは皇甫嵩である。皇甫嵩は女性将軍ながらにして、若くから武芸に秀で、義に篤く、清廉な態度から評価の高い士大夫の一人である。彼女は士大夫の身でありながらも積極的に出陣し、戦場を駆けた。数々の戦闘の結果、鎧には傷やへこみが目立っている。
 さらに彼女は宮中において政治の実権を握る宦官に党錮の禁の解禁をさせ、さらには帝に陳言し、この遠征の為の軍馬を提供するように願ったほどの豪胆さを併せ持っている。
 彼ら左右中郎将の名声は、腐り始めた宮中にあって一際輝いている。

「それは初めからわかっていたことです。大将軍は我々のことなど駒の一つとしか見ていませんから」
 皇甫嵩は悲しげに呟いた。

 長社はもうもたない。これは朱儁にも、皇甫嵩にも、今更言うまでも無くわかっている事実である。

「騎都尉殿の到着はまだなのか」
「沛国へ伝令を飛ばしたのは三日前。すぐに出立してまだ三日は掛かります。現時点で一たび討ち入られたら、為す術はありません、三日も持たないでしょう」

 焦燥は募れど、打開策は出てこない。追い打ちを掛けるように、敵軍を指揮している波才という男は軍略の心得がある様で、このような機会をみすみす逃すはずがないと思われるのだ。

「陥落を待つだけか……」

 覇気も無く、朱儁にはもう開戦時の様な気勢は無くなっていた。皇甫嵩がそんな朱儁に発破をかける。

「何を弱気なことを言っておられるのですか朱儁殿。まだ負けた訳ではないではありませぬか!」
「そうは言ってもな……城壁の下を見れば、地面が見えぬほど我が軍の兵の亡骸が転がっている。残った兵士たちの士気も下がる一方だ」

 沈鬱な面持ちで朱儁は言う。どれほど強がったところで敗色濃厚であることは火を見るより明らかであると。

「何を!」

 皇甫嵩が城壁を強く叩いた。朱儁が驚いて皇甫嵩の顔を見ると、その唇は悔しそうに引き結ばれていた。

「敗色濃いこの時勢である今でこそ、我々上に立つものが弱気になってはいけないのです!」
「ではどうする」
「打って出ます」

 皇甫嵩は静かに言った。

「…………な」

 朱儁は言葉を失った。それを予期していた皇甫嵩は言葉を続ける。

「すでに細作をこの長社の周りに放っています。細作が戻ってきた後、敵軍の防御の薄い部分に全兵力をもってぶつかれば、その勢いで波才の首をとることが出来るやもしれません」

 よく磨かれた刃物にも似た、切れ長で冷涼な印象を持った皇甫嵩の瞳には、熱い決意が湛えられている。付き合いの長い朱儁には、彼女が気を違えたという訳ではないことがわかる。わかってしまうからこそ朱儁には許すことはできない。

「そのような下策を許せるわけがない! それに今の兵力では逆に踏みつぶされてしまう!」

 今度は朱儁が城壁を叩いた。
 二人の間に緊張感が漂う。
 お互いに向かい合い、言葉は発せられない。

「……あと数日持ちこたえれば、希望はあるのだ」

 絞り出すように言った朱儁の言には、希望というものがない。絶望が彼の心を折ってしまうのも時間の問題のように思える。
 人の心というものは一度傾くと、容易には立て直すことが出来ないものである。皇甫嵩は説くように愚策とも呼べるこの策の利を説明する。

「ですから打って出るのです。まだ力を残していることを敵軍に知らしめることで、向こうが我らの出方を見るようになり時間が稼げます」

 皇甫嵩は静かに、だがしっかりとした口調で言った。

「戦は正と奇、この二つが肝要です。兵の多寡は問題ではなく、いかにして相手の虚を突くかこれが兵科の理です」
「……ふむ」

 強い意志を持った皇甫嵩の言葉に、意気地を無くしていた朱儁も耳を傾け始めた。心なしか感心しているようにも見える。

「現在、波才軍は草の生える小高い丘に陣営を張っています。風に乗せて火を放つにはうってつけです。もし夜陰に乗じて火を放つことに成功すれば、賊は驚き浮足立つでしょう」
「だが風が吹かなければ、火計は成立しないぞ。これではまだ十分な策とは言えん」
「吹きます。穎川の向こうには大きな山があります。夜になって空気が冷えれば、長社城を通り越し、あの陣営へと風は吹くのです」

 春は始まったばかり、日中は温かく陽が照っているが、夜には冬が立ち戻ったかのように一気に冷え込む。確かに火計に向いた強い風が吹く為の条件は揃っている。
 朱儁皇甫嵩の瞳を見つめていた。
 再び言葉が途切れる。皇甫嵩朱儁の返答を待っていた。

「……だが無理だ」
「何故です!」

 皇甫嵩が吼えた。

「貴方はこれほどまでに臆病者だったのですか。天に仕える身でありながらなんという腰の引け様ですか!」
「……私はここで果てようが構わぬのだ。しかしお主の命が失われるのはこの先の天にとって痛手となる。死兵とならせる訳には断じていかぬ。希望を捨てぬのも良い。だが勝敗は兵家の常だ。無茶はせず、時には逃げることも考えねばならんのだよ」
朱儁殿……」
「賊が攻め込んできた時は、残った兵の半分を持ってこの城から出るのだ。奴らの気は私が引く」

 朱儁は自身が囮となり、同僚である皇甫嵩の命を助けようと言うのだ。

「あ……」

 皇甫嵩朱儁と比べるとかなり年若い。それゆえに皇甫嵩は、口にはしないまでも父のように思い慕っている。そんな朱儁に自分の命を慮る様なことを言われてしまっては、皇甫嵩にはそれ以上言葉を返すことが出来なかった。

「話はここまでだ、敗走の策を兵に気取られるなよ」

 朱儁は踵を返した。

 軍の統率者が逃げる算段を立てていることが知れれば、それこそ軍が瓦解する原因になりうる。既に脱走する者も出ているというのに、敗走の際の最低限の防御すら出来なくなってしまう。
 朱儁皇甫嵩の言葉を待たずに、物見の方へと向かっていってしまった。皇甫嵩は力なく城壁へと体重を預けた。